豪華なメンバーの集合写真

 オホーツク海の沿岸部や利尻島に行くと、会津藩士の墓が点在しているのに遭遇します。

 会津藩といえば幕末に将軍家からの強い要請によって、京都守護職という厳しい役回りを演じたわけですが、それ以前にも対ロシアの防衛も受け持たされていたために、多くの会津藩士が蝦夷地に赴任していきました。

 会津藩主松平容保の家臣で、京都時代に公用方として、薩摩藩などとの外交を担当した秋月悌次郎(あきづき ていじろう)も、京都駐在の外交官から蝦夷地(オホーツク海に面した斜里)に左遷されたことがあります。

 その後、秋月悌次郎は会津戦争に参加。戦後は終身刑に処せられますが、のちに特赦。明治政府の仕事をしたあと、熊本の旧制第五高等学校で漢文の担当教授になります。

 彼は江戸幕府の昌平坂学問所で秀才と謳われ、漢籍を極めた人ですから、まさに昔取った杵柄(きねづか)だったわけです。

 実は秋月の写真を熊本で見たことがあるのですが、非常に印象深いものでした。

 その写真は熊本大学の敷地にある赤煉瓦の建物、旧制第五高校の記念館、の中にありまます。

 そもそもは第五高等学校の英語教師を務めたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の展示物をみようと思って行ったのですが、そこにはハーンと秋月を含む当時の教職員と学生とが写っていました。

 ちなみにハーンは松江中学から、第五高等学校に転勤してきました。余談ですが第五高等学校のハーンの後任は夏目漱石です。

 司馬遼太郎さんの短編「ある会津人のこと」にはハーンが秋月のことを「神様のような人」と言っていたと書かれていますが、そのことを彷彿させる写真でした。

 この大人数が登場している集合写真ですが、最前列の中央には校長先生が座っています。この人も有名人です。

 「嘉納治五郎」、講道館柔道の創始者です。

 トマムから新千歳空港に向かう車中、窓の外に広がる北の大地を眺めつつ、なぜかこんなことを思い出しました。


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