米沢の底力

   山形からの帰路に、ちょっと米沢に途中下車しました。

   いまの事情は詳しく知りませんが、戦国時代から江戸時代にかけて、山形と米沢の関係は微妙で難しいものがあったように思います。

   伊達政宗というと仙台の人間だと思っている人が多いのですが、もともとは米沢の豪族の息子です。 政宗の母親は、山形を根拠地とする戦国大名である最上家から嫁入りして来ました。 いわゆる政略結婚です。

   「米沢の伊達」と「山形の最上」は領土を接し、油断も隙も見せられないような緊張関係にありました。  狐と狸のばかし合いといった状況だったのでしょう。

   江戸時代に入ると米沢は上杉家、山形は最上家が改易後には徳川系の譜代大名の領地となります。 因みに57万石の大大名であった最上家の旧領のうち日本海側では、徳川家四天王の筆頭であった酒井家が庄内藩を興します。

   石高は減少したとはいえ、外様大名の雄であり、上杉謙信の流れを組む上杉家は、徳川直系の会津藩と、譜代大名の山形藩、さらには庄内藩に包囲された形となっていました。

   そのような歴史的な背景もあり、米沢というところは産業面、文化の面からも自立しており、その中で多くの人材を生み出してきたように感じます。

   かつて、地元の信用金庫の経営者の方から、信用金庫が編纂した叢書シリーズ(信金の80周年記念事業)を何冊か頂戴したことがあるのですが、それらを読みますといろいろなことがわかります。

   たとえば、米沢を中心とする置賜地区は、かつて3人の日本銀行総裁を輩出しているのだそうです。

   そのうちの1人が池田成彬ですが、その池田成彬の息子さんが、岩波新書屈指のロングセラーである「自由と規律」(英国のパブリックスクールでの経験談)の著者である池田潔さんであることも、信用金庫叢書で知ることができました。

写真は米沢駅のホームにある米沢牛の像です。後ろの方にかすかに上杉鷹山公の画像が見えます。

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