一子相伝、門外不出~いなにわ饂飩

今日は先週後半の秋田遠征でのお話しです。

オリンピック選手の出迎えで大賑わいの秋田空港の喧騒をあとに、角館から秋田県南へと向かいました。目的地は西馬音内。「にしもない」と読みます。

東北地方は旧国名で言うと太平洋側が陸奥、日本海側が出羽ですが、出羽地区には西馬音内のほかにも比内鶏の比内など、「内=ない」がつく地名が多いですね。北海道と同じです。それに対して、陸奥のほうは「戸=へ」がつく地名が多いです。一戸から九戸までありますからね。

16日は日本三大盆踊りの西馬音内盆踊りの初日でした。盆踊り情報は改めてお知らせすることとし、本日は秋田県南地区の豊かさについて書いてみたいと思います。

陸奥が「やませ」の影響で冷害が発生するため凶作に見舞われることが多いのに対して、出羽の方は米が安定的に収穫できることから、昔から大変豊かだったようです。ただ恵まれ過ぎて、胡坐をかいていたとは言いすぎかもしれませんが、生産物の加工による付加価値をつけることに積極性を欠いており、県外(とくに山形県)の加工業者にうまい汁を吸われていたことは否めません

豊かさの象徴のような町が増田町です。いまは横手市(本多上野介正純の墓があります)に合併されていますが、この町にあるかつての豪商によって作られた蔵は壮観です。いくつかある蔵の一つは佐藤養助商店の漆蔵資料館になり、そこにはレストランも併設されています。佐藤養助商店は、言うまでもなく、稲庭饂飩の老舗中の老舗であります。

同商店のホームページによれば、稲庭の干饂飩は1665年に秋田藩主佐竹候の御用処として稲庭吉左エ門が始めたもので、その製法は「一子相伝、門外不出」。稲庭家のみで作られていたわけです。

1860年に製法断絶防止の観点から当時の稲庭吉左エ門の4男で佐藤家に養子に入っていた佐藤養助氏(二代目)に特別に製法を伝授します。

現在、稲庭饂飩の生産者は80社だそうですが、それは1972年に7代目佐藤養助氏が製法技術の公開を決断、一子相伝の秘法を家人以外にも解放したことに端を発するとのことです。

漆蔵資料館で説明していただいた方によれば、出稼ぎに頼らざるを得ない冬場の地元雇用を確保するために地場産業での雇用拡大を図るべきとの判断が秘法の公開を促したそうです。オープン化ですね。

併設レストランでの稲庭饂飩は格別でした。

韓流映画「IRIS」(主たる撮影地は秋田県田沢湖)のキムテヒもここで稲庭饂飩を食べたみたいです、蛇足ながら。

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コメント

  1. ARCadia より:

    古い話で記憶が定かではありませんが、かつての部下に、上記の方と同姓(親類、切餅で有名な新潟のメーカーも遠縁だとか)で、稲庭饂飩の「本場」出身の者がいました。

    その頃、稲庭の名はそれほど広まってはいなくて、稲庭饂飩大好き、と言ったら、ソイツは大層喜んでくれました。本場には老舗が2軒あって、一つが佐藤でもう一つがナントカ。当時はナントカの方が優勢のようなことを言ってました。

    近年、東北を回りましたが、稲庭饂飩の蔓延にはビックリです。十和田市の食堂にも平気でありますし、角館辺りでも「名産」扱いです。角館のタクシーで「稲庭饂飩食ってきた」と言ったら「ワシら、高くて滅多に食えません」だって。

  2. 芸のない旅芸人 より:

    ARCadiaさん

    稲庭饂飩がお好きのようですね。是非とも本場で食べてみてください。ハッキリ言って、本場で食べるとモノが違うと感じます。

    また、この界隈は蕎麦も美味しいみたいですよ。B級グルメの目玉焼きが入った焼きそばも有名ですが。。。。。