現代に残る関ヶ原の戦い

 まだ10日なのに、今月2度目の鹿児島です。

 10月の鹿児島というと忘れられないのが、「妙円寺詣り(みょうえんじまいり)」

 これは、1600年の関ヶ原の合戦の日と同じ、旧暦の9月15日の行事ですが、だいたい10月の最終週の週末に行われます。

 関ヶ原の戦いで島津家は西軍(石田三成方)として出陣します。当時の島津家の当主である島津義弘(維新入道)は上方に滞在していたものの、家臣団の大部分は薩摩に戻っていたため、関ヶ原に参陣できたのは、わずか1000人足らず(この時期、島津勢が合戦に臨む際、数万人体制が通常の姿)。

 関ヶ原では島津軍は石田三成からの再三の要請にもかかわらず不動の姿勢を崩しません。

 そして、午後になって勝敗が決した段階で、退却するのではなく、勝ち誇った東軍のど真ん中に割って入り、正面突破を図ります。

 追撃軍を振り切り、伊勢街道から山越えをして、大阪にたどり着いたときは維新公と数十名の家臣だけだったといわれています。

 この時の薩摩隼人たちの戦いぶりをしのび、関ヶ原の合戦の日に、鹿児島城下から島津維新公にゆかりがある妙円寺(廃仏毀釈で神社となり、徳重神社。のちに妙円寺は復興しますが)までの20キロ余りを歩くのが、妙円寺詣りです。

 江戸時代の薩摩藩の人材教育であった郷中教育(ごじゅうきょういく)にも組み込まれていたとか。幕末、明治維新の有名人たちも歩いたことでしょう。

 「妙円寺詣りの歌」というのがあります。1番から22番まであり、その内容を見ると、3番は合戦の最中も不動の島津勢、6番で小早川秀秋の裏切り、10番からは正面突破開始、16番・17番で島津豊久、阿多盛淳という重臣の身代わり討ち死にといったように関ヶ原における島津軍の戦いの場面が展開します。

 かつては、歩きながら、この歌を歌っていたそうです。

 個人やグループで歩くだけはでなく、学校単位であったり、職場単位で参加する場合もあるようです。 私も鹿児島の職場の仲間たちとともに2度ほど歩きましたが、とても爽やかで、健康的な体験でした。

 途中の休憩所で、豚バラをつまみにビールを飲んでいる人もいましたが(笑い)。。。

 いまや全国的にウオーキングがブームとなっていますが、妙円寺詣りほど伝統と歴史のあるウオーキングは他にはありませんね。

 今年は日程が合わず、参加することはできませんが、「次回は何とか!」と思っています。


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コメント

  1. kochan1026 より:

    薩摩藩は西方についたにしてはその後生き残りましたね。毛利はもっとやられましたが、西軍の総大将だったのだから仕方ないですかね。私の故郷の南條伯耆守(若い殿)は石田三成の檄を受け、家臣多数の反対を押し切って西方に組しました。私の祖先は関ヶ原より20年前に毛利(吉川)と激闘を何度も繰り広げた南條の軍師でしたが、老骨に鞭打って関ヶ原に駆けつけ討死しました。

  2. 芸のない旅芸人 より:

    kochan1026さま

    コメント、ありがとうございます。

    山陰は吉川広家(富田月山城)の領地なので、参陣した部隊はすべて、南宮山から引き返したものと思っておりました。

    山陰の武将で関ヶ原で討ち死にした方がいるとは思いませんでした。びっくりです。

  3. kochan1026 より:

    東伯耆は室町初期から南條(伯耆守)の支配下にありました。尼子が山陰を制圧する勢いを見せたので、南條は毛利と組んで尼子を滅ぼしました。ところが信長が調略の手を伸ばすと南條は信長に組し、秀吉が山陰に大軍を率いて来るまで毛利と激闘を繰り広げました。吉川元春の本隊が秀吉の水攻めにあっている因幡の鳥取城救援に駆け付けられなかったのは松崎近くの羽衣石城で南條が頑強に抵抗していて前に進めなかったからです。関ヶ原の時も東伯耆は南條の支配下にありました。

  4. 芸のない旅芸人 より:

    kochan1026さま

    なるほど、そういうことだったのですね。

    ありがとうございました。