三列車物語

病に倒れる前、全国を走り回っていた2013年3月25日、このブログに45周年ということで、1968年3月25日のことを書きました。

今日はその1968年3月25日からちょうど50年。

ハカセとARC氏とワタシにとって忘れることのできない記念日です。

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50年前の夜、高校の同級生である我々は夜行列車で各地に散って行きました。

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(1) まずは、ARC氏の列車の寝台券から。

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新宿発22:35、中央線経由で長野に向かう急行「上高地」です。

中央本線の夜行といえば電車急行の「アルプス」で、山登りの若者たちで埋め尽くされたクロスシート座席が思い出されるのですが、驚くことに寝台車を連結した客車列車もあったのです。

「上高地」はその年の9月末で廃止となったのですが、それを選んだARC氏はさすがです。

「上高地」の一両だけの寝台車は、一等と二等が半分づつという「オロハネ10」という車両であり、ARCさんによれば、一等寝台だけが冷房完備、二等寝台は送風のみだったとのこと。このころは通勤電車も扇風機が当たり前でした。

ARCさんは中央線経由で名古屋の親類の家に向かいました。

社会人になってから、ワタシもオロハネ10に無性に乗りたくなり、わざわざ札幌まで遠征したことがあります。オロハネ10を連結していたのは、札幌から稚内までの夜行急行「利尻」でした。

稚内には 20回以上行っているのですが (稚内ウォッチャーを自負しています)、寝台車での旅はこの時だけです。

ハカセの写真館にオロハネ10 があったそうで、早速、送ってもらいました。

飯田町(飯田橋駅の側) の客車区での写真です。(1968年1月)

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家人に「おばあちゃんが安来に帰るときに飯田町にチッキを送りに行った」と言ったら、「???」。

( 注: チッキは鉄道小荷物、飯田町(貨物駅)では小荷物の取り扱いを行なっていた。)

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(2) 次はワタシの列車です。東京駅発19:50 、急行「出雲」の寝台車で京都府の綾部に向かいました。

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ワタシにとっては初めて自ら計画した泊りがけの旅です。

急行「出雲」は東京から東海道線を走り、京都から山陰本線に入り、島根県の浜田に行くのですが、ワタシは早朝の綾部で下車しました。

そこから舞鶴、宮津、天橋立 (股のぞき)、豊岡をまわり、豊岡からは山陰本線に合流して、安来の祖父母の家に向かったのです。

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(3) ハカセは東京駅発 22:35 (ARCさんの新宿発と同じ時間です) の急行「大和」(やまと) に乗車しました。

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「大和」は東京から奈良の都まで直通するから命名されたのでしょうか。この時期、「大和」は金沢行 (米原経由) の急行「能登」と名古屋まで併結でした。

「大和」は名古屋から関西本線に入り、四日市、亀山、伊賀上野を経て、奈良駅には 8:20 と、出張者や観光客 (わざわざ夜行で入る観光客がいたのかなぁ?) にはちょうど良い時間に到着します。

「大和」は大阪の湊町駅 (いまは移転してJR難波駅と改称) が終着駅 (9:17着) だったのですが、ハカセは奈良の次の停車駅である王寺 (8:38着) まで乗車したようです。

王寺では「大和」の寝台車のうち一両だけが切り離されて、王寺からの客車とともに和歌山線に入っていきます。御所、五条、橋本、粉河を通り、和歌山市到着は11:44。

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ハカセの写真は王寺駅における和歌山市へのSL列車ですが、荷物車の次に寝台車の姿があります。

今回、改めて急行「大和」の寝台車1両だけが13時間をかけて和歌山市まで走っていたことを知り、これぞ「乗っておきたかった列車」だと痛感しました。

1980年代、ロンドンに住んでいたころ、何度か夜行列車でスコットランド方面に行きましたが、寝台車の一部が途中駅で切り離されてホームに取り残され、乗客は朝まで寝ていられるという経験 (ダーリントン駅) をしましたし、寝台車の一部が支線の奥まで運ばれて行く姿を見送り (フォートウィリアム駅、残念ながら乗車しませんでした)、面白いなぁと思ったものです。

50年前の日本にも同じ風景があったとは。


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コメント

  1. ARC(短縮しました) より:

    アチコチ盛り沢山で、どこにコメントすればいいのやら。

    それにしても三列車物語とはタイトルからしてウマいねえ。

    当時は自分のこと精一杯でしたが、同日三方向とはなかなか洒落た趣向でしたね。

    オロハネを取り上げてくれたのも慧眼(?)

    「上高地」が廃止になるのを知って乗ったのかは覚えてませんが、信州に用があって乗ったわけではなくて、

    (旅芸人殿と同じく)オロハネに乗るために、だったのだろうと思います。(何しろ長野でどこへ行ったのかまるで覚えてない)

    寝台は三段、狭幅、冷房化前の時代で、天井がつっかえるし送風機が目の前で「ウルセエなあ」と、そんなことはよく覚えてるもんです。

    未知の中央本線に乗るというので、つい意気込んで、名古屋までの駅名を覚えましたよ。

    その頃は気力も脳も充分だったのだなあ、きっと。

  2. 旅芸人 より:

    中央本線の駅名を覚えるとはすごい。

    当時と名前が変わってしまった駅名は、

    初鹿野、三留野。

    他にもあるかな。

    名古屋の金山駅は中央線だけの駅で、東海道本線と共通ではなかったですね。

  3. ARC(短縮しました) より:

    そう、大高ー笠寺ー熱田ー名古屋でした。

    中央本線の前は東海道本線でしたが、覚えてますかその切っ掛け。

    生物の授業のあまりの退屈さに耐えかねて旅芸人殿に訴えたら、5駅くらいずつ駅名を書いた紙切れを回してきたので覚えてしまったのですよ。宿場名や駅名はある程度は知っていたのでこれは案外簡単でした。

    で、その勢いで次の中央線も何とか。

    その次は山陽本線で、これは長いので大苦戦。それが完遂する前に函館本線(山線経由)が来てしまって、、、ここで挫けました。気力、脳力の限界はすぐ来ました。

  4. 旅芸人 より:

    生物の市村センセ、実に退屈でした。

    駅名を暗記することで眠気をさまそうとしたのは覚えとります。最近は病院でMRIをやるときにうるさいので、東海道本線の駅名を順繰りに怒鳴っています。山陽本線の笠岡、大門、福山あたりで、やっとMRIのノイズ攻めが終わりました。グッタリですわ。

  5. ARC(短縮しました) より:

    MRI時に役立つとはね!

    ニシアチタマシマコンコウカモガタサトショウカサオカダイモン・・・なんてのはまだ出てきますよ(それがどーした?)。

    糸崎だか三原出身の方と話してた時、思わず本郷河内入野と口をついて出たもんで、何でそんなトコ知ってんの、なんてことも。(ニュウノのアクセントが違ってたようですが)

    旅、歴史、地理、の旅芸人殿としてはそんなことは当たり前に多いでしょうし、お仕事にも大いにプラスになっていると拝察しますが。