諫言を受け入れる度量

歴史ドラマを欠かさずチェックしている身としては、国営放送の今年の大河ドラマが東京オリンピックの助走とはいえ、近現代ものとなったのは残念です。

それはさておき、歴史ドラマで注目するのは「主人公の次世代がどうなったか」というところです。

「〇〇地銀はトップが変わっておかしくなった。見る影もない」

といった話が少なからず聞こえてくる中で、

地域金融機関のトップのサクセッション問題が常にワタシの頭にあるからです。

トップのサクセッションは実に難しく、歴史にヒントがあればと思うのですが、いかがでしょう。

原作者、脚本家が人物キャラクターの色付けをしている以上、真実を知る由はないのですが、たとえば三傑 (織田信長、豊臣秀吉、徳川家康) の中で家康だけが次世代まで隆盛を極めた理由の一つに、

「諫言する人間を側に置いた」

ことがあるように思います。

まず、信長に諫言したのが守役の平手政秀というのは定番ですが、若い頃の話です。頭角を表してからは信長に意見をする側近は登場しません。

秀吉の場合、竹中重治、黒田如水のような謀臣はドラマに出るのですが、諫言する側近となると弟の秀長 (小一郎、のちの大和大納言、堺屋太一さんの著書「ある補佐役の生涯」の主人公です) ぐらいしか見当たりません。天下を取ってからの秀吉は、トップになった途端に暴走する企業経営者 (珍しくないですね) のような姿で描かれるのですが、秀長が死ぬと傍若無人ぶりに拍車がかかります。ドラマでの秀吉の晩年の行状は醜悪です。

さて、家康です。

家康には諫言の士がいます。

本多正信です。

若い頃に三河一向一揆に与して家康に反抗し、逐電し、帰参した後も家康側近として耳の痛いことを言い続けます。それでいて所領はわずか (2万石あまり)。ですが家康への影響力は絶大ですね。

そういえば、

地方銀行Xの中興の祖ともいえるトップは頭取を退任するまで、厳しいことを言うナンバーツーを置いていました。

常勤役員がお友達クラブ化するようだと社外役員によるガバナンスが機能することはなく、そういう地域金融機関が多いことは否定できません。

“諫言の士”を受け入れるだけの度量のあるトップの登場が待ち望まれるところです。


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コメント

  1. 橋本卓典 より:

    >諫言の士

    まさに、これまで「計測できない世界」の問題として放置されていた悠久の歴史に連綿と続く「人類組織の欠陥」を象徴する言葉です。

    我々は常に形式と手段の奴隷に成り下がります。よく考えれば、「諫言の士」さえも「手段」です。

    さて、なぜ「諫言の士」を置かなければならないのでしょうか。その「目的」とは?

    突き詰めれば、トップに「見えていない世界」「見ようとしていない世界」「都合の悪い現実」を突き付けることで、脱線しそうになっている経営を軌道に戻したり、気づかないのリスクを回避する「目的」のために「諫言の士」が必要なのだろうと思います。

    組織が大きくなればなるほど、トップには必ず「見えていない世界」が広がります。規模は一人では不可能な大事業をも可能にしますが、同時に組織内部崩壊を招く、自覚症状なき悪性腫瘍ともなります。

    トップは「見えていない世界」が常にあることを謙虚に受け入れ、臆病になり、その上で、自分の過信を制御してくれる「外部機能」をどう備えるかということです。これこそがトップに欠かせない資質の一つでしょう。

    しかし、今日の組織のサクセションプランにおいて、果たしてそのような観点も考慮されているのでしょうか。リーダーシップとは一体何なのか。考えさせられる問題です。

    近年、早大ラグビー部元監督・中竹竜二さんの「フォロワーシップ」が「リーダーシップ」の対極として取りあげられます。フォロワーシップは、同じ方向に向かって、いろんなやり方で走ろう、というものです。

    その本質は一体何でしょうか。

    私が思うに、「内部機能」をまるで「外部機能」のように機能させ、トップの暴走のけん制というよりも、ベストプラクティス至上主義で組織を運営していこうということだと思っています。

    何が「手段」で、何が「目的」か。この思考が極めて重要です。