この2週間で3度目の松江です。
松江に城ができて、城下町が形成されたのは400年ほど前。
それまでは松江から東南へ20キロあまりの位置にある富田月山城(とだ・がすさん)が出雲の国の中心でした。尼子経久(あまこ・つねひさ)が富田月山城主だった15世紀の前半、には出雲の国どころか、中国地方をほぼ制圧しました。
松江に築城したのは、関ヶ原の合戦後に、出雲・隠岐の二カ国の大名として、富田月山城に入った堀尾吉晴(ほりお・よしはる)でした。
堀尾吉晴は尾張出身で、織田信長、豊臣秀吉に仕えました。いわゆる豊臣系の大名です。豊臣秀吉の晩年に五大老・五奉行の制度ができたことはよく知られていますが、大老と奉行の潤滑油的な機能として、三中老がいました。堀尾吉晴は三中老の一人です。
出雲・隠岐24万石の大名として封じられる前のポストは、遠州浜松で12万石です。
浜松城といえば、徳川家康が秀吉によって江戸に移封されるまえの居城であり、「出世城」と称しています。吉晴は家康の後任です。
蛇足ながら、堀尾吉晴の浜松の前任地は、近江国・佐和山。つまり、吉晴は佐和山城主として、石田三成の前任者にあたるわけです。
さて、
「浜松城と城下をめぐる」(2011年、浜松市役所編集発行)によれば、いまの浜松城の石垣や縄張りは堀尾吉晴の時代にできたものだそうで、立派な天守閣が築かれていたと言われています。
江戸時代を通じて、浜松城は数多くの譜代大名の入れ替わり立ち替わり状態となりますが、天守閣はなかったようです。
「浜松城と城下をめぐる」によれば、当時の浜松城の天守閣を知る手がかりはないが、現存する松江城の天守閣をもって想像することができるとのこと。
ともに吉晴の作品ですからね。
浜松博物館では11月25日まで、堀尾吉晴展を開催しています。地味な武将ですが、豊臣系の大名にとってはアウェーの地で、このような展示がなされていることには、ちょっと驚きを感じました
松江では、堀尾吉晴の銅像を作る話が進んでいるそうです。