日曜です。
肩のこらない話です。宜しかったらお付き合いください。
🐶🐶🐶
小学生の時、毎土曜日の下校時間に山陰本線の線路沿いの道を歩いていると、SL客車列車が横を通過していきました。
客車の横にある行き先表示板には「正明市行」とありました。
祖父に読み方を聞くと「しょうみょういち」。どのようなところなのか、と想像をめぐらしたものです。
昭和36年の時刻表で確認すると 823列車であることが判明。
始発駅 福知山を5:57 に出て、終着駅の正明市には21:15 到着のロングランです。ワタシの住んでいた安来駅は13:22 発、どおりでお腹が空いていたわけだ。
正明市駅は昭和37年に改名しました。いまは長門市駅です。
長門市駅は、コリっとした食感の蒲鉾を名産にもつ仙崎への乗換駅であるとともに、山陽本線の厚狭駅(あさ)とを結ぶ美祢線の起点になります。
いまこそ長門市とくれば、金子みすゞですが、当時は全国的には無名でした。
美祢線の中心は美祢駅 (かつての駅名は吉則) ですが、ここから宇部までは石灰石を運搬する SL貨物列車が頻繁に走っていました。美祢は秋吉台の西の玄関口でもありました。
美祢駅の隣駅、南大嶺駅からは大嶺までの支線があり、この支線からは大嶺炭田の無煙炭が運び出され、日本海軍の軍艦に搭載されていったのです。
学生時代に山陰本線から美祢線に入る急行列車を美祢まで利用したことがあるのですが、この「さんべ2号」(米子発 10:00) は長門市で一部車両が切り離されて美祢線を走り、厚狭経由で山陽本線を下関まで行き、そこで長門市から山陰本線をそのまま走行する車両と合流し、熊本 (20:33着) までの運転でした。
旅客列車よりも石灰、石炭を運搬する貨物列車が幅を利かす美祢線でしたが、乗り鉄紀行をエンジョイしたことを思い出します。
最後にハカセの写真館です。
① 支線の終点、大嶺駅 1972年8月
② 美祢線と支線との分岐駅、南大嶺駅 1972年8月
③ 美祢駅の構内での、石灰搭載の貨物列車 1972年8月
コメント
懐かしい写真をありがとうございます。
大嶺には山陽無煙工業所という無煙炭を産出する炭鉱があり、少年時代(昭和30年代後半)、採炭の技術者であった父によくついていきました。父との思いでの場所です。
閉山は昭和45年だったと思いますが、坑道を閉鎖する前に、坑口から2百メートルくらい中をのぞいた記憶がよみがえりました。
トロッコはすでに動いておらず、ヘルメットにヘッドランプを着けて学生服、という不思議な姿で坑道に入りました。
宇部興産の持つ炭鉱の最後の閉山でした。当時同社の石炭部門の責任者であった父の万感の思いを込めた職権乱用(笑)だったようです。
無煙炭ではありますが、粉炭のためコークスにはならないことから、製鉄には使えず、用途の限られた炭でした。
空き家にしている宇部の自宅には、粉炭しか取れない大嶺炭田で取れた貴重な塊炭がコーティングされ残されてます。
そうそう、寺岡さん、宇部でしたね。
とはいえ大嶺とそこまでご縁があるとは存じませんでした。お役に立てて幸いです。
中学校の社会科の授業で、中国地方の産業ということで、先生が大嶺炭田の無煙炭の話をしていたことを思い出します。海軍にいた人です。当時は戦争経験者の教師が多かったですね。
中学の授業で大嶺炭鉱の話ですか。その時代ならまだ盛んに出炭してたのでしょう。
’72年大嶺駅の写真のホッパーや家並からは何やらうらぶれた印象しか受けませんが、昭和45年の閉山ならまだ大して時間は経ってませんね。でも人がサーっと消えて街の活気もなくなったでしょうからこんなもんですかね。
そういえば、筑豊辺りを旅するとボタ山がやたらと目に入ってきましたが、こういう山あいの炭鉱(のボタ)はどうしてたのでしょう。(話がとっ散らかってイカン)
無煙炭と聞くと、ワタシなんぞホンゲイと反射的に出て来てしまいます。これも中学の授業だったかなあ。(またトンだ…)
海外の無煙炭ならば、やはりイギリスのカーディフ炭でしょう。
社会科の授業で出てきました。
30数年前にカーディフに行った時のそれを思い出し、話題にしましたが、地元の人もピンとこなかったみたい。
ずいぶん無煙炭を深掘りする授業なんだなあ!?
カーディフなんて地名、久しぶりに聞きました。
そもそもウェールズなんてコッチから見るとナゾの地ですからね。
イギリス鉄道紀行の番組なんて見てると、やけに長い綴りの駅名(Welsh?ケルト語?)を併記してるのがウェールズでしたっけ。
行ってみたかったがなあ。
ワタシの無煙炭=ホンゲイの図式は多分ホンゲイ炭を盛んに輸入してたからでしょう。石炭モノでは、その他、露天掘りがドコソコとかありましたが、今の授業じゃ石炭なんか出てこないでしょうなあ。
石炭の露天掘りとくれば、
中国のフーシュンですね。
これも社会科でやったなぁ。
教師が石炭マニアだったかもしれない。
昭和50年前後、原料炭だけ輸入が認められていたのが、一般炭の輸入も解禁になるということで、政府の委託を受けて、カナダ、ベトナム、中国、豪州で炭鉱調査に駆け回っていた父を思い出します。
ちなみに社宅の風呂は会社から配給される石炭で沸かしていました(笑)。
そうそう『撫」で始まるところ。写真まで載ってたような。
S50年となると石炭は身の回りから消えてましたが、S35年までいた区立小学校では石炭バケツをせっせと運んでた覚えがあります。その頃は筋肉派だったので石炭担当だったのかなあ。
S40年に都内に戻った時には、教室暖房はすっかりガス化してました。
豪州のピルバラで炭鉱経営に乗り出そうとしていた父を思い出します。
契約直前に米国の会社にひっくり返され、実現しませんでしたが・・・。
ピルバラ? ウムム、聞いたこともありません。
なーるほど、鉄鉱石の大産地でオーストラリアの北西部なんですね、、、いかにも人が少なそう。
以前、オーストラリア・キンバリーのダイヤモンドって耳にして困惑した覚えがあります。
昔々、ダイヤといえばキンバリー(南アフリカ)、と習いましたから。
先生が、ダイヤでも金張り!って独り悦に入ってたのが染みついちゃって。
キンバリーの隣なんですね、ピルバラって。
そこでダイヤを掘る筈だったのですか・・・黒いダイヤ。
壮大な話でいいなあ。