日曜日、乗り鉄紀行は、先週の善光寺平ネタの続編です。
善光寺平に展開する長野電鉄はとても魅力的な私鉄です。
いまは、長野駅から、須坂、小布施、信州中野を経由し、信州屈指の温泉郷 湯田中駅まで、33キロあまりの路線だけなのですが、かつては信州中野から木島 (飯山市) までの線と、屋代駅 (信越本線) と須坂を結ぶ河東線がありました。
河東線については先週のブログでも書いたのですが、歴史物語に包まれたような路線です。
沿線が川中島の戦いの現場 (妻女山、雨宮の渡し、海津城など) であり、江戸時代になると川中島藩(森家=森蘭丸の弟 森忠政、松平忠輝、松平忠昌、酒井忠勝)、松代藩 (真田家) の中心地となり、佐久間象山 (松代藩士) の号が因んだのではないかと思われる象山も松代駅の近くにあります。
蛇足ながら、クリントイーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」(2006) に登場する栗林忠道中将は松代出身で、墓所も松代にあるそうです。10月8日のブログで東條英機が意に沿わない人間を激戦地に飛ばしたという話を書きましたが、栗林中将は駐米武官の経験もある国際派でした。
さて、
ワタシの学生の頃は、上野から長野に向かう急行列車の一部が屋代駅で切り離され、河東線に乗り入れて、湯田中まで運転していました。
スキーのシーズンに1度乗車したのですが、山岳線に強い165系の3両編成で、河東線内は松代駅のみ停車したように思います。
その後、2012年に廃線になるまで、河東線には何度も乗車しましたが、武田上杉の戦国絵巻を脳裏に描き、関ヶ原戦い、大坂の陣を乗り切った真田信之の、93年の生きざまを思いながらの旅は格別でした。
最後に、ハカセの写真館「河東線」。
いずれも1990年8月15日です。
お盆のど真ん中ですね。
(1) 屋代駅
(2) 屋代駅
(3) 松代〜金井山
(4) 松代〜金井山
コメント
湯田中行きの急行が屋代から乗り入れたとはスッカリ忘れてましたが、今言われてみて、そりゃそうだ、時刻表のあの分岐の仕方のジのイメージがハッキリと浮かんできましたよ。
スキー2回目にして骨折して、帰りの湯田中駅で(当時は大混雑だった)衆人の注目を浴びながら「優先的」に急行志賀に乗車させてもらったことも蘇ってきました。
ワタシが湯田中から上野までの急行列車に乗った時は、長野電鉄に乗り入れていた3両も名称は急行「信州」でしたが、やはり急行「志賀」の方が良いですね。
長野電鉄に乗り入れていたのは確かに3両で「志賀」だったような、、、たぶん本線では信州と併結でした。
信州○号・志賀○号の表記を覚えてます。
親の生家が松代で、先祖は松代真田藩士でした。川中島の戦い(?)、関ヶ原、戊辰戦争と戦いを生き抜いてきました。子供の頃の夏休み河東線の電車に揺られて松代までの思い出が懐かしいです。松代には佐久間象山、松井須磨子、横田秀雄正俊親子、栗林中将と歴史の好きな方の記憶に残る有名人ですね。明治初期に中級藩士が明治政府に多々登用されたこともあり十万石の城下町としては昔がそのまま残る街並みです。