東京エレクトロンの元社長、東哲郎さんの「私の履歴書」(日経)ですが、第17回(18日)と第18回(19日)はとくに読み応えがありました。
ワタシの友人がかつて社外取締役をつとめていたこともあり、本邦で先頭を走っていると称される同社のガバナンス体制には以前から非常に興味がありましたが、そのエッセンスを垣間見ることができました。
まずは、東さんとシリコンバレーに住む半導体関連メーカーのCEOとのやりとり。(第18回より)
~米国の取締役会はCEOと最高財務責任者(CFO)を除くとあとは社外の人材というケースが多い。社内の人材が圧倒的という日本の取締役会とずいぶん違う。どう思う?
~「それはCEO次第だ」。たとえ社外取締役が多数派でも、CEOの言いなりという会社が米国でも珍しくない。つまり、社外か社内かは問題の本質ではない。自分が御しやすいイエスマンばかりの陣容にするか、耳が痛いことも忠告してくれる陣容にするか。はじめにCEOがそれを決めるのが肝心だと。
~米国では1990年代に機関投資家が発言力を増した。経営に役立っているの?
~「機関投資家も一様ではない。大きく2種類だ」。短期で株を売り買いしもうけたがるタイプがいる一方で、中長期にわたって会社を見守り、経営者に意見を言うタイプもいる。目先の利害で動く投資家か否か。その見極めが大切だと。
次に指名委員会におけるこだわり。(第19回より)
~「指名委員会の設置は2000年。最大の特徴は社長をメンバーにしないこと。すると産業界からセンセーショナルな反応が起きた。日本では社長が後任を指名し、それがトップの責任と考える会社が多い。そういう役目、人事の特権を東京エレクトロンの社長は手放すのか、というわけだ。誰が次のトップに適任か一番わかっているのが社長だろうとの意見もあった。待ってほしい。いざとなれば社長を辞めさせるのも指名委員会の仕事である。トップの暴走を食い止めるのだ。社長がメンバーでは機能しない。もちろん次代を担う人材の育成に社長は大いに責任がある。だがトップを選ぶ過程は透明、客観的でなければならない。私はそう信じる。残念ながら日本では現在も受け入れられにくい考え方だ。」
地域金融機関の社外取締役、指名報酬委員会の仕事をしているワタシですが、この話を自らの金融機関にあてはめて、じっくりと考えてみます。
コメント
銀行の持ち株会社って、何でこんなにもイケてないのかを考える訳です。
資本構成とは真逆。持ち株会社の上に銀行がある。すべては銀行のために機能するよう求められている。収益はもちろん、人事でも行き場のなくなった年次の高い人がなぜか持ち株会社子会社トップに送り込まれる。中には水を得た魚の如くに、大活躍する人もいますが、稀。大抵は「疲れた人」「骨休め」「大過なく余生を過ごす」。顧客からすれば、迷惑千万な話です。まったく顧客本位ではありません。ガツガツ顧客価値のために活躍した人が、持ち株ツリーを登ってゆく、システムにならない限り、銀行の持ち株会社は機能しないでしょう。「形式から実質」を掲げる金融庁も文化人類学的に考察し、何でバッサリ切り込まないのか。
つまり、多胡さんが御指摘のように「社外」を外形的にいくらそろえても、「社外って何で必要なの?」という本質に迫らなければ、どこまでも「形式」。同様に、持ち株会社も「持ち株に移行しましたぁ!という銀行中心の形式持ち株」から「実質」に転換しないと。
銀行員を全員退職させ、持ち株採用でリセットし、役職をすべて取り上げ(給与は激変緩和)、顧客価値を競う出世レースに組み換えた方が、文化人類学的に自然だと思います。
時間稼ぎ、既得権防衛、やっている振り、逃げ、横並び等々の「形式」対応が、いたるところで生まれそして形骸化しています。最悪なのは形骸化がわかって意味もないのに意地でその形式の仕事をしつづけていること。無駄以外の何物でもない。検査マニュアル廃止にその代わりを求める姿はその最たるもの。このコロナ禍、今やっている仕事が本当に必要かどうか見極めるチャンスではないだろうか。今自分がやっている仕事何のためにやっているのか?お客様、会員、組合員のための仕事なのか?捨てて捨てて、今そしてこれから本当にやるべきことに資源を集中する必要はあるのではないか?つくづくそう思う毎日です。