先週に続いて、今週も「えさし」です。
同じ北海道の「えさし」でも、オホーツク海に面した枝幸町の方です。
枝幸町を訪れたのは10年あまり前です。
司馬遼太郎さんの朝日新聞社の最後の番記者だった村井重俊さんに、枝幸町と稚内市で講演をお願いしました。
村井さんとワタシたちは紋別空港から、信号もすれ違う車もほとんどないオホーツク街道・国道238号線を100キロあまり枝幸まで北上、稚内から南下してきた増田雅俊さん(稚内信用金庫理事長)たちと合流しました。
司馬さんの「街道をゆく38」の舞台となったのはオホーツク街道ですが、村井さんの著書「街道をついていく」には、その取材の様子も書かれています。
司馬さんが取材した当時のゆかりの人たちと、番記者として同行した村井さんとで旧交を温めてもらい、当時の話をしてもらうという企画を考え、増田さんに肝入りになってもらいました。
街道をゆく38には「佐藤隆広係長」という章があります。
枝幸町にあるオホーツク人の遺跡「目梨泊遺跡」の調査責任者である佐藤さんが司馬さん一行にオホーツク文化を熱く語る場面は感動的で、週刊朝日の連載当時に読んだときのことが思い出されます。
司馬さんが生き急いでいると表した佐藤さんは49歳で早世、稚内信用金庫の職員であるお嬢さんに案内していただき、一同そろって墓参しました。
http://esashi-kankou.com/study/museum/
さて、国鉄時代に目梨泊には興浜北線(浜頓別~北見枝幸)の駅がありました。
ハカセの写真館からは興浜北線のSL、ARCさんからは北見枝幸駅の写真を送ってもらいましたので掲載します。
コメント
雄武から枝幸までの238号線(バス路線)の景色があまりに素晴らしく、後年ワザワザ再訪しました。それくらい気に入ってます。
枝幸駅の写真は’82年のようなので1回目の時ですが、服装から季節は夏で、太陽の向きから見ると午前中。
記憶を手繰ると、前日遅く興浜南線で雄武に着いて(宿があるかヒヤヒヤでした)、翌朝早く出発して枝幸に着いてもそそくさと浜頓別に向かった、そんな旅でした。
雄武-枝幸に限らず、オホーツク沿線は地図からは何となく寂れて見えてしまいますが、実は広く明るく(夏だから当たり前か)、人家は疎らながらホタテ御殿なんかも並んでいて、想像以上に「豊か」な印象を受けました(40年前でも)。