海士町の話、最終回です。
海士町には宮内庁の管理スポットがあります。なぜ?
1221年、承久の変。後鳥羽上皇は鎌倉幕府と、ことを構えますが敗退。当時の鎌倉幕府は第2代執権北条義時(政子の弟)の時代で最強。後鳥羽上皇は隠岐島に流されます。
配流地となったのが海士町。行在所は海士町役場の近くにあります。
後鳥羽上皇は19年、この島で生活し、島を出ることなく崩御。
「我こそは 新島守よ 隠岐の海の荒き波風 心して吹け」 (後鳥羽上皇御製、増鏡)
後鳥羽上皇は壇ノ浦で平家一門とともに入水した安徳天皇の弟さんにあたります。ただ母親は建礼門院ではありませんので異母弟。
行在所のそばにある資料館の方によれば、後鳥羽上皇の陵は京都大原・三千院の裏にあるそうです。この話は初耳でした。建礼門院の寂光院のお隣なんですね。
蛇足ながら、後鳥羽院の約100年後に後醍醐天皇が隠岐島に流罪となります(正中の変)。後醍醐天皇の行在所となったのは海士町ではなく、隣の西ノ島町です。のちに後醍醐天皇は隠岐を脱出。足利尊氏、新田義貞、楠正成 らの力を借りて、鎌倉幕府を倒し、建武の新政を始めます。
コメント
夫に、多胡取締役の著書と本ブログを紹介したところ、いたく関心を示しています。
若桜のSLはもちろんですが、ジオパークがらみで隠岐も気になるみたいです。
彼に動きがあれば、また報告します。
福田様
海士町の人たちの声にもあるように、地域の勝敗は、担い手の本気度にかかっています。 御主人様によろしくお伝えください。