信長はゴールよりもアシスト

 名古屋から名鉄本線で豊橋まで乗車しました。

 名古屋と豊橋(江戸時代は吉田といいましたが)の間を、名鉄、JR東海道本線、東海道新幹線の3つの路線がつないでいますが、江戸時代の東海道五十三次にほぼ並走しているのは名鉄です。

 名鉄は日本で初めて前面展望車の車両を導入したことで知られています。調べてみましたら昭和36年にパノラマカーとして7000系がデビューしています。

 ちなみに、小田急ロマンスカーの前面展望車(NSE 3100系)が、新宿と箱根湯本の間を走ったのは昭和38年です。名鉄の方が早いのですね。

 私も学生時代に、「平塚のハカセ」(昭和36年ごろに岐阜に住んでいたことがある)のオススメで、わざわざ名古屋までパノラマカーに乗りに行きました。そんなことを思い出しつつ、乗車。

 名古屋から前面展望車の最前列に陣取り、名古屋から岡崎(東岡崎駅)まで、前面車窓にどっぷりつかりました。

 名古屋を出ますと、まずは熱田神宮(神宮前駅)。織田信長が桶狭間の戦いのときに戦勝祈願したとの伝承があります。さらに走ると鳴海。今川義元軍に対する防衛線として名前が出てきます。

 鳴海から数分。有松駅あたりより、右手に展開しているのが桶狭間です。名鉄の線路からはかなり離れているので、視界にとらえることはできませんが、なんとなく、織田信長がたどった道をイメージすることができました。

 桶狭間の戦いにおいて、信長が最高殊勲選手として誉めたたえたのは、今川義元を討ち取った毛利新助や服部小平太ではなく、簗田政綱(やなだ まさつな)だと言われています。

 簗田政綱は、今川義元が桶狭間に陣を張って休息をとっていることを発見し、知らせた人間です。最終目的のところで結果を出した人間よりも、その状況を作りだした情報提供者の貢献度が高いとの評価ですね。

 ゴールを決めた人よりもアシストをした人を評価する。信長ストーリーの中で、私の一番好きな話です。

 ただ、ここまでの評価を得たわりに、簗田政綱はその後の歴史にはあまり出てきません。

 Yさん(地域の魅力研究所の仲間)によれば、簗田政綱とその息子(広正)はその後、北陸地区担当の柴田勝家軍団に組み込まれて、大聖寺界隈で加賀一向一揆と戦っていたようです。本能寺の変以降は歴史から消えたみたいですね。

 桶狭間の戦いの日は梅雨の季節で、蒸し暑かったそうですが、今日はさわやかな秋晴れ。


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