今月始め、中央高速・笹子トンネルの事故が起こったときに、それを報道する某ワイドショーの司会者が、「宇都宮の釣り天井」を例に出して話をしていました。それを聞いた女子アナがポカンとした表情だったことを思い出します。
「宇都宮の釣り天井事件」と言われても若い人は、訳がわからないのでしょうね。
今日は朝から、宇都宮です。
男体山からの寒風で、相当の冷え込みを覚悟していたのですが、思いの外、マイルドな気候でホッとしました。
さて、宇都宮は鎌倉時代より北関東の要衝として栄えていました。
宇都宮を根拠地とする鎌倉時代からの名門宇都宮氏は、戦国時代を乗り切れるかと思いきや、秀吉の亡くなるわずか1年前、関ヶ原の合戦の3年前に、秀吉によってお取り潰しとなってしまいます。
江戸時代に入ると徳川譜代大名のエース級が続々と配置されたのが宇都宮であり、その中でも代表的な人物が、本多正純です。
本多正純は徳川家康の晩年期における側近ナンバーワンで、大変な権勢をふるいました。
しかしながら、家康が世を去り、第二代将軍である秀忠の時代になると、秀忠の側近を固める官僚、譜代大名ですが、との間で確執が生まれます。
極めつけとなったのは宇都宮城主であった譜代大名の奥平家昌が亡くなり、その息子の忠昌が幼少であったことを理由に、本多正純が奥平家を格下の下総古河に転封したことです。
よりによって、その後に本多正純自身が要衝・宇都宮城主となったことで、反正純勢力が頭を持ち上げてきます。 お手盛り人事はいけませんね。。。
宇都宮城は将軍の日光参拝の際の宿舎となるのですが、宇都宮城主の本多正純が釣り天井の仕掛けを施し、将軍秀忠を圧死させようとの陰謀ありとの疑いをかけられます。正純は申し開きをするのですが、それが通らず、宇都宮15万石は取り上げられ、出羽国横手に配流されるというのが顛末です。
かつて秋田県横手で本多正純の墓を見たことがありますが、幕閣ナンバーワンの実力者のものとは思えぬ寂しいものでした。盛者必衰を感じずにはいられませんでした。
宇都宮の釣り天井事件は冤罪であることは、ほぼ間違いないと思います。家康側近と、代替わりの秀忠側近との権力闘争の中で、仕掛けられた罠なのでしょう。
前社長の番頭が、新社長のもとで失脚するという、いまもある話ですね。