昨日、桜の標本木がある西の丸庭園について書きましたが、西の丸は秀吉の時代には、正室である北政所の居住地でした。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いの前夜に、北政所は西の丸を徳川家康に譲り、執着を残さず京都へ移ります。 家康は西の丸で政務を行なったと言われています。
本丸、天守閣には淀君がいたわけですから、西の丸と本丸との間はギクシャクしていたのでしょう。
西の丸庭園は常に多くの観光客を集めて賑わっていますが、大阪城で是非、確認したかったのは山里曲輪の場所でした。
山里曲輪、言わずと知れた大阪夏の陣の最後の場面となったところです。
徳川勢に取り囲まれたこの場所で、豊臣秀頼と淀君が自爆死したと言われています。
大阪城の天守閣の北側の日陰に小さい石碑がポツンと立っております。
天守閣から京橋方面に向かって歩いている多くの観光客は誰も目を止めません。
大阪城の豊臣家の栄華は、わずか30年でした。