平田東助

1891年に刊行されたという「信用組合論」の表紙の写真を、信濃の達人Mさんから送ってもらいました。感動‼️

平田東助(米沢藩)、杉山孝平の共著。

松方正義、品川弥二郎、井上毅と薩長の重鎮が名を連ねています。

平田、品川の活動は、9月7日のブログで書いた橋本卓典さんの著書「金融排除」(幻冬舎新書)の最終章を読んで知りました。

Mさんは今週末の諏訪リレバンサミットの現地会場におられると思いますので、詳しいお話はそちらでどうぞ。

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コメント

  1. 橋本卓典 より:

    平田、品川らは、産業革命後に社会の分断を招いた英国ではなく、プロイセンからドイツに発展しながらのも社会政策を重視したビスマルクの手腕に注目したのです。それこそ信用組合でした。生協を発明した英国よりドイツの方が農協、信用組合を上手く活用しました。平田、品川たちが維新後、僅か5、6年でこれを見抜いたのは慧眼というほかありません。岩倉使節団は不平等条約を解消できなかった、と歴史の授業で学びましたが、イヤイヤ、もっと大きなものを見つけたのではないでしょうか。例えば、高山信金の方は、胸を張って、飛騨高山祭りの山車をひいてます。祭りの大事な担い手です。金融機関である前に地域人なのです。二宮尊徳は単なる本好きの薪を担いだ少年ではないですからね。

  2. 増田寿幸 より:

     橋本さんのコメントの後半に二宮尊徳が登場する理由を分かりやすく述べます。信用組合論の発表は明治24年です。品川弥次郎は発表とともに帝国議会に信用組合法を上程します。ところがこの法律は成立せず廃案になります。がっかりしただろう品川や平田が刮目したのは、尊徳さんの弟子たちの活動組織であった「報徳社」がヨーロッパの信用組合と同じような考えで同じような役務を提供していたことでした。
     法律は9年後の明治33年に産業組合法という名前で成立し信用組合の根拠法になります。ところがわが国で最初の信用組合は静岡県の掛川信用組合で産業組合法が成立する8年前の明治25年に設立されていたのです。掛川報徳社が信用組合を名乗ったからです。ですから我が国の信用金庫信用組合のルーツは二宮尊徳とその弟子たちになります。
     つまり相互扶助を根本理念とする協同組織は平田や品川が欧州から輸入した組織ではありますが、もともとは江戸時代からあった報徳運動も立派な協同組織であり、さらに遡れば、鎌倉時代から続いた講(コウ)や結い(ユイ)に行着きます。ちなみに明治に報徳運動が盛んだった静岡や北海道で信金や信組の地域シェアが高いのは偶然ではないはずです。