横須賀線の東戸塚に住んでいた頃、週末になると三浦半島を散策していました。
20数年前の夏の日曜日、京急浦賀駅から汗を拭き拭き古い街並みを東林寺まで歩きました。
この寺には、嘉永6年のペリー来航時に旗艦サスケハナに乗り込んだ浦賀奉行所与力・中島三郎助の墓があります。
中島三郎助が亡くなったのは函館、明治2年のことです。市の中心地、中島町は三郎助が明治政府軍に対し陣を構えて2人の息子とともに戦死した場所に由来する、と函館出身の友人がかつて教えてくれました。
先週の旅芸人ブログでは五稜郭タワーから函館山方面の写真を掲載しましたが、三郎助が布陣した中島町あたりも捉えることができます。
中学生のころ父の書棚にあった「燃えよ剣」(1964年発表)の単行本を読んで以来、五稜郭は常に行きたい場所リストの最上位に位置していました。
1970年夏に初めて北海道の土を踏んだ折、1日目に五稜郭を訪問。ただ、このときはSLの魅力が勝っており、ハカセとともに五稜郭機関区のSLを優先しました。
その後、数え切れないほど函館を訪問し、市街地を歩きました。歴史探訪のみならずグルメツアーも。
10年ほど前には、地域の魅力研究所の近藤さんとともに、函館バルの仕掛け人であるスペイン料理店主・深谷宏治さんからバスクでの修行時代の苦労談などをうかがうことができました。
いつ訪れても飽きることのない函館。
ハカセの写真は2人で初めて北海道に足を踏み入れたときの五稜郭機関区のSLです。(1970/7/26)