半世紀前の写真から

ハカセから都電28系統の写真が送られてきました。

1969年のものです。

都電28系統は、都庁前駅 (いまの東京国際フォーラムの鍛冶橋通り側) から、東京駅の丸の内口を南から北にかすめ、永代通りを東陽町まで直進し、そこから北上して錦糸町駅前まで走っていました。

地下鉄東西線の大手町と東陽町の区間の地上部分を通ることから、丸の内、日本橋、茅場町といったオフィース街と門前仲町のような下町風情のあふれるエリアを結ぶ線でした。

小学生の頃、伯父の関係する会社が永代橋にあり、母と何度か東京駅から都電に乗ったものですが、それが28系統だったかもしれません。

ハカセの写真から明らかなように、都庁前駅の乗り場の向かい側には都庁の建物があり、江戸城を築城したと言われる太田道灌の銅像が丸ビルの方を向いていました。

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太田道灌は関東管領の一族 扇ケ谷 (おうぎがやつ) 上杉氏の家臣です。

ライバルの山内 (やまのうち) 上杉氏との戦いに明け暮れている中で、いくさ上手の上に文化人の側面 (「山吹の里」の話) も持ち、主君の上杉定正に謀殺されるという悲劇的な最期を迎えたことも、その人気の理由かと思います。

話は変わりますが、

横浜市の東戸塚に住んでいたころ、毎週末は気分転換に鎌倉をうろついていました。

北鎌倉駅から円覚寺、横須賀線の線路沿いの道、建長寺の手前で右折、扇ケ谷の切り通しを抜けて、英勝寺へと至る道が定番でした。

この英勝寺は太田道灌の邸の跡地にある浄土宗の尼寺であり、建立したのは徳川家康の側室で太田道灌の子孫にあたる英勝院です。

英勝院はとても聡明だったと言われています。

英勝院は水戸徳川家の初代頼房 (家康の末子で、水戸黄門のお父さん) の養母になったのですが、江戸期を通じてこの寺は水戸徳川家によって支えられてきたと聞いたことがあります。

ハカセの写真から、このような話を思い巡らしました。


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コメント

  1. ARC より:

    時代を感じさせる写真ですね。、、、道灌像の遠景はビル建設ラッシュ?

    これでも子供の頃は病院通いをしていて、専ら愛用していたのが女子医大だったので、新宿からは都電で河田町か若松町に通ってました、13系統ですね。

    この路線は、途中、一部が専用軌道だったりして。(今は妙に曲がった遊歩道)

    ある通院日がちょうど八丈島が金環食だった日で、病院でもらったレントゲンイルムの切れっ端で電車待ちしながら部分食を見たのを覚えてます。

    何月何日、何時頃だったか、あとで調べてみよう。

  2. 旅芸人 より:

    都電の専用軌道。抜弁天のところですね。

    河田町に住んでいた時には新宿から酔っぱらって、フラフラ歩いて帰りました。

    女子医大が近所だったおかげで心筋梗塞の父親は助かりまして、今年90歳ですわ。一病息災ですね。

  3. ARC より:

    そうでした、一時は河田町でしたね。

    そういえば、後年、余丁町にいた頃、アッシはあの小径を通って歌舞伎町や二、三丁目方面に出撃してたのでした。

    都電の話に戻すと、我ら世代でも、利用したのはどうしても幼少時代ということになりますね。

    母親などは街中育ちの戦前派なので市電はアシだったと言ってます。