唐津にインバウンド観光の草分けがあった

  唐津にいます。

  ここには「虹の松原」という名勝の地があります。自然林ではなく、人工的な防風林ですが、江戸時代からの長い歴史があります。

  「虹の松原」を鳥瞰する鏡山という展望台に連れて行ってもらったのですが、絶景。

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「虹の松原」の延長線上は半島のようになっていますが、砂浜と松林のコンビネーションは日本三景の某所よりもはるかにダイナミックです。

  半島の突端には唐津城があります。唐津に築城したのは寺沢広高という豊臣系の大名です。広高は秀吉死後、徳川家康の傘下に入り、もともとの唐津8万石に飛び地で天草4万石が加増され、都合12万石の領主となりました。寺沢氏はその後、息子の代になり、天草での残酷な統治がキリシタン一揆を招きます。島原の乱です。

  島原の乱の責任を取って、寺沢氏が改易になったあとは譜代大名が入れ替わり立ち替わり。その中での有名人には天保の改革をおこなった水野忠邦がいます。ただ、水野忠邦は出世のためには九州にいるよりは江戸に近い方が良いとばかり、浜松への転封(石高は減額)を希望し、唐津を去りました。

  「虹の松原」を見たあとは唐津の3つの老舗窯元を訪問しました。

そのうち一つの窯元ではご当主とゆっくりお話をすることができました。「本質を極めた達人」との面談に身震いする思い。 緊張!

  宿泊は老舗旅館の「洋々閣」さんです。

外国人観光客の受け入れでは大変長い歴史を有し、日本におけるインバウンド観光の草分けです。

  かつて「虹の松原」は上海の租界地に居を構える多くの欧米人にとっての静養地だったそうです。その時代、すなわち戦前より「洋々閣」さんには、欧米人が宿泊客として来ていたとのこと。

そして、戦後になると佐世保などの軍関係者をはじめとする多くの欧米人が口コミで来訪。

  欧米人の顧客となるとどうしても彼等のテイストに合わせがちですが、「洋々閣」の御主人である大河内社長は、純日本風を敢えて貫き通し、このことが欧米人の根強い支持を得たのです。

  日本人は団体旅行が全盛で、九州でも温泉地の大型ホテルに日本人が向かう中、個人向けの純和風旅館のコンセプトでの生き残り策は、欧米人をお客にすることでした。

  その後、日本人の和風旅館ブーム、さらには韓国、中国、台湾などのハイエンド層、昨今は東南アジアにまでも顧客は広がっているそうです。

  食事は超一流。実に美味しいです。

  玄界灘の波音をBGMに、松の緑がライトアップされた庭を眺めつつ、大河内社長の興味深いお話をうかがっていたら、あっという間に零時になっていました。

  まさに命の洗濯ができました。

  7時間後の朝御飯が楽しみです。(0時20分)

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コメント

  1. ARCadia より:

     優美な海岸線・・・そうですね、鏡山からの展望は絶景です。

     野外活動の一環で鏡山(付近)で野営したことがありますが、夜景がまた見事。連休中なのに見物人も殆んどなく、もったいないと思いましたよ。函館もそうですが、海岸線は夜景に映えますね。さらにイカの漁り火なんかが点在するとまた結構。

     そういえば、唐津の話で安易にイカ刺やくんちに持っていかないのはさすが。洋々閣なんてちっとも知りませんでしたよ。

    (唐津の一夜は、夜半から大雨になり散々・・・洋々閣とはエライ違いじゃ)

  2. 芸のない旅芸人 より:

    ARCadiaさん

    鏡山で野営とはすごいなあ。

    あんたは何者?といわれたのでは、、、、

    イカ刺し、くんち、、、、、

    いやいや、唐津とくれば、洋々閣さんでしょう!