関ヶ原の合戦屏風は何故「北へ」

 司馬遼太郎さんの「街道をゆく」第41巻「北のまほろば」を片手に弘前の町を歩いていました

  街道をゆくの中でも、私はこの「北のまほろば」がとくに好きです。

  残念ながら弘前城(国の重要文化財)の天守閣は11月23日をもって、冬ごもりに入り、来年4月までクローズとなっていましたが、気を取り直して、枯葉と残雪の混じった城内ウオークを堪能いたしました。

  何と言っても、人が少ないのが最高。城址公園からの雪化粧をした岩木山は素晴らしかったですね。

  城内にある弘前市立博物館では、津軽藩主12人の特別企画をやっていましたが、そこで一つの発見がありました。

  天下分け目の関ヶ原の合戦を描いた屏風の話です。

  関ヶ原合戦屏風というのは複数あるのですが、津軽家のものが、井伊家のものと並んで有名です。前者は大阪歴史博物館、後者は彦根城博物館にあります。

  関ヶ原の戦いで活躍した井伊家が保有しているというのは納得できるのですが、なぜ、津軽家にそのような貴重なものがあったのか、いままで分かりませんでした。

  弘前市立博物館の特別展示によれば、津軽家の第二代藩主である津軽信牧(のぶひら)の夫人である満天姫(まてひめ)が徳川家康の養女(異父弟の娘)であり、彼女が輿入れ道具とともに持ってきたのだそうです。

  なぜ持ってきたのかについては、いろいろな説があるようですが、「満天姫の前夫が福島正則の息子であったことが理由」という説が想像力を逞しくさせてくれます。

  関ヶ原の合戦をめぐる駆け引きでは、さまざまな武将が活躍するのですが、実際の野戦となると一番活躍するのは福島正則であったといっても過言ではないでしょう。

  福島家は大阪夏の陣で豊臣家が滅亡したあとに、お取り潰しになるのですが、それにより、満天姫も実家(徳川家)に戻ってきます。

  満天姫が格下ともいえる、最北の4万数千石の大名に嫁ぐ(再婚とはいえ)というのも不思議ですが、徳川家が津軽家と姻戚を結ぶことでうるさ方の伊達家、南部家、最上家などを牽制するとか、満天姫が津軽信牧を見初めたとか、いろいろな説があるようです。

  さて、

  関ヶ原の合戦屏風ですが、「満天姫が再婚先に持って行ったのは旧婚家への思い出からではないか」という話(俗説かも知れませんが)がジーンときます。

  それを確かめるすべがない以上、このちょっと切ないロマンティックな説を支持したいですね。

   次回、大阪に行くときには大阪歴史博物館に立ち寄ることにしようと思います。


シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. ARCadia より:

    津軽家の屏風ですかあ、、、歴史話は何ともラベルが違いすぎてコメントのしようもありやせんが、コッチの方には言えますな「よっく動くねえ・・・」

  2. 芸のない旅芸人 より:

    ARCadiaさま

    青森を出て、いま伊勢松阪に向かっています。

    はやて、のぞみ、近鉄特急の乗り継ぎですわ。

    まあ、よく動いている方ですなあ。

    遊び歩いていると思われても仕方がないか。。。。

  3. ARCadia より:

    ま、松阪 ハァ

    本務も多少なりはあろうが、ホント遊び歩いているとしか見えません!

  4. 芸のない旅芸人 より:

    ARCadiaさま

    松阪では有名店で、すき焼きと網焼きを食べてしまった。これで仕事とはいえないか???