神田明神つながりで話は広がる

いつも親しくさせてもらっている某社の社長さんによれば、仕事始めは社員全員で「神田明神」に初詣をされるとのこと。

そんな話を電話でしたあとに外出。 大手町のビルの谷間にある「将門塚」の側を通ったら、何とタイミングよく、「初詣は神田明神へ」の旗指物が立っていました。

「将門塚」と「神田明神」、どんな関係があるのでしょうか?

事務所に戻って調べてみました。

神田明神のホームページによれば、神田明神の発祥(8世紀初め)の地は、現在の将門塚のある場所だったようです。 10世紀に平将門の乱がありましたが、この地で将門の霊を弔ったとのこと。

江戸時代の初期(1616年)に神田明神は今の場所に遷座。 今の神田明神の位置は江戸城の表鬼門にあたり、江戸城の守護神の役割を担うことになったわけですね。

明治以降も神田明神は大手町、丸の内、日本橋、神田、秋葉原といった江戸108町の総氏神様なのだそうです。 知りませんでした。

「神田明神下の銭形平次親分」ぐらいしか頭に浮かばない私も、今日は勉強になりました。

蛇足ですが、神田明神が江戸初期に神田に遷座した跡地は誰のものになったのでしょうか。

江戸城の大手前の1等地ですから、エリート大名の武家屋敷になったようです。

将門塚の敷地に看板がありました。(写真)

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この地は江戸時代中期には下馬将軍と言われた大老・酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の屋敷だったみたいですね。

酒井雅楽頭の屋敷と言えば、仙台藩の原田甲斐が伊達安芸を切り殺し、その原田も討ち取られるという伊達騒動の最後の場面になったところです。

歌舞伎の「先代萩」や、山本周五郎さんの「樅の木は残った」で名高い伊達騒動のクライマックスの地が、将門塚の場所と同じだったとはビックリです。

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