48年前の3月20日、大学入試の結果を島根県安来市の祖父母の家で聞きました。
そして、3月26日の夜、安来発 22:49の「ちどり4号」に乗車、真っ暗闇の木次線、芸備線を広島へと向かいました。出雲坂根のスイッチバックと、三次駅の停車時間が長かったことが記憶に残っています。
27日 早朝 5:00、広島着。
大阪 (23:08) からの夜行急行列車「つくし3号」で広島入り(4:43)したハカセと合流し、呉線の小屋浦まで行き、SL通勤列車の写真を撮りました。
当時、呉線はSLのメッカで、かつて東海道本線や山陽本線で特急列車を牽引していた大型SLが、最後のお勤めで頑張っていました。
27日は呉の旅館に泊まり、翌日28日には倉敷から陰陽を結ぶ伯備線で北上しました。新見の出雲屋という典型的な駅前旅館で一泊し、翌29日の朝、布原信号所まで行き、SL3重連の貨物列車を撮影したのです。
SLを3両連結して牽引する本来の理由は、急勾配を登るためですが (かつての東北本線、御堂→奥中山のように)、伯備線の3重連は回送の都合で3両をつないでいたというのが実態です。3両がフル稼働らしき活動をするのは布原信号所を出発し、トンネルに入るまでの瞬間だけなので、ここが撮影スポットとなっていました。当時は撮り鉄も少なく、のどかなものでした。
伯備線(倉敷⇄米子)、芸備線(新見⇄広島)、姫新線(新見⇄姫路) の要となる新見は鉄道の街です。新見駅に隣接する機関庫、SLたちが転車台を取り囲む姿は壮観でした。
新見の隣駅、備中神代 (びっちゅうこうじろ) 駅にも初めて下車しました。伯備線と芸備線の分岐点ですが、静かな盆地にある小駅です。小学校の修学旅行の折も含め、それまで何度も通過していましたが、いつも気になる駅でした。
数年を経て、銀座の映画館でこの駅を見ることになります。1977年封切りの「八つ墓村」(松竹) です。
主人公の萩原健一さんが、小川真由美さん (実は殺人犯です) とともに列車から降り立つ駅が、備中神代だったのです。遠方からズームアップされるカメラワークをよく覚えています。金田一耕助役は渥美清さんでした。
そして旅の終わりに、新見発 岡山行のSL客車列車からみた夕刻の高梁川の川面に向かって流れるSLの煙は何故か鮮明に覚えています。
岡山からは急行「瀬戸2号」の三段式寝台。翌30日の朝 10時ちょうどに東京駅に着きました。
今回の画像もハカセの写真館からです。
コメント
伯備線の三重連の盛名はワタシも耳にしていましたが、それでもまだのどかな時代だったのですね。
最盛期は酷かったですね、人垣が何重にもなって。
呉線のC62、当時はこんなところへ都落ちして、なんて思ってましたよ。
ナンバープレートだけが浮かび上がってる写真がまたイイ。
某機関車DBによると、この機(カマ)は同年11月に廃車とありますから「間に合った」ってところですか。
呉線では数年前の痛恨事を思い出します、が、長くなるので割愛・・・
毎月の松江での仕事の時に、しばしば伯備線を使いましたが、特急「やくも」が備中神代と布原を通過するときはワクワクしました。いまや高速道路が通り、風情がなくなりましたが、極上のゆったり感ある車窓です。八つ墓村の最寄駅というのは気の毒なような、ぴったり感があるような。
2012年夏の巡検ツアーで、津山に集合した時も、新見から刑部や中国勝山を通って姫新線で入りました。新見機関区の横を通りましたが、見る影もありませんでした。そういえば津山機関区の見学は楽しかったですね。
イヤハヤ、あのツアーはヨカッタ…久しぶりの純鉄旅でした。津山の機関庫もよかったけど、個人的には因美線なんてのに乗れて喉のつかえが消えた思いでしたよ。
中国地方の「中の方」はなかなか乗る機会がなくてねえ。上記記事にある中では木次線も芸備線も乗ってません(それがどーしたって?)。