日曜日は乗り鉄紀行です。
金曜日に、高校時代の友人であるハカセから、70枚の鉄道写真が届きました。
ワタシが高校生のころに写したもので、それを50年も保存していてくれたハカセは、何とデジタル加工の上、送ってくれたのです。持つべきものは几帳面な友達です。
今日は、
その中から小田急線を走ったディーゼルカーのことを書いてみます。
今でこそ、新宿駅からJR御殿場線の御殿場駅まで、小田急ロマンスカー (「ふじさん」号) が運転されていますが、御殿場線 (当時は国鉄) が1968年6月30日に電化されるまでは、同区間には2両編成のディーゼルカーが、小田急電車 (6〜8両編成) に混じって走っていました。
定員制 (座席指定ではない)の準急列車で、「銀嶺」、「芙蓉」、「朝霧」、「長尾」という愛称がつけられていました。
当時、ワタシは笹塚駅 (京王線) と下北沢駅を利用することが多かったのですが、ディーゼルカーが肩身が狭そうな風情でホームのきわを全力疾走 (準急列車でありながら、小田急線内は新宿以外はノンストップ) する姿を見送っていました。
中学校の時に友人と松田町にミカン狩りに行った折に、帰りは松田から新宿まで実際に乗車したのですが、新宿までのノンストップ運転 (だったと記憶していますが) は快適でした。
ただ、座席は小柄な中学生の体格でも「狭いなぁ」と感じたことを覚えています。
御殿場線の電化とともに2両編成のディーゼルカーは、箱根湯本や片瀬江ノ島に向かうロマンスカーと同様の車両に切り替わり、現在に至っています。
ワタシが撮った写真 (ハカセの加工) をアップします。いずれも1968年6月30日。最終日でありながら、鉄ちゃんはほとんどいません。
① 東北沢駅付近
② 東北沢駅を通過
③ 新宿駅にて
コメント
こんなところから発掘されるのもどーかと思いますが、
ハカセの「几帳面な」、、、は全く同感、ホント貴重menですよ。
ワタシも、ハカセのお陰で旅程の詳細(いつ、何に乗って、何々旅館に泊まったとかまで)が判明したケースが多々あります。
この写真の1年後くらいに沿線地域に転居して小田原線人になりましたが、このディーゼルは全く記憶がありません。
それにしても、最終日に、わざわざ待避駅の東北沢で撮ったこと、さらに新宿まで追いかけた執念。今では窺えない拘りを感じます。
今の最寄駅は見通しがいいせいか、特に新車が投入された時など、下りのホームの端でカメラを構える少年、青年、中年、をよく見かけます。
こんな時間(平日、多くは10〜11時)、、、一体何をしてる人だろうとつい思ってしまいます。(非難してるわけではありませんよ)
また脱線でスンマセンが…
松田町にみかん狩りですって?
中学時代というと’60年代の半ばでしょうが、ワタシはその四半世紀後、頻繁に松田山に通ってました。
みかんの時季には、同地のみかん農家で山盛りのみかんを頂いてましたが、当時、松田がみかんの北限と仰ってました。
今では、温暖化のせいか、北限もかなり上がって、先日出かけたわたらせ渓谷鉄道の沿線にもありました。
○○狩りというと、遥か昔の梨狩りを思い出します。
それこそ小田急の向ケ丘遊園辺りに梨園がいくつもありました。
その頃、住まいは東横沿線でしたが、何度か小田急で梨狩りに出かけたものです。
3000系SEのロマンスカーに出会ったのも多分そんな折りです。
その頃、3000系は名物のオルゴール音をのべつ振りまいていて、沿線住民でもないのに覚えてしまいました。
いつの間にか聞かなくなりましたが(騒音だからねえ)、つい先日、新宿駅で最新の70000系が入ってきたときに鳴らしていたので、アララまだ載せてるのかと驚きました。
中学生の時、同じクラスの奴が祖師ヶ谷大蔵に住んでいて、そいつが松田山のみかん狩りのビラを見つけてきて、行くことになりました。紀州や愛媛のものと比べたら酸っぱくて、あまり数を食べれなかったですね。帰路は特別準急のノンストップでしたが、往路は下北沢から急行に乗りました。急行は停車駅が少なく、やたら停まる京王とはえらいちがいだと感心しました。下北沢、向ケ丘遊園、新原町田、相模大野、本厚木、伊勢原、鶴巻温泉、大秦野、渋沢、新松田ですからね。