室町時代、阿波国はしばしば歴史ドラマに登場します。
足利政権が安定していたのは最初の頃だけで、応仁の乱以降となると畿内は常に戦乱に巻き込まれていました。
戦国時代になると全国各地で下克上が起こるのですが、三管領の一つ細川家 (阿波国の守護) に家宰の三好家が取って代わった阿波国はその典型例と言えるでしょう。
その三好家も家臣である松永弾正久秀に乗っ取られたのは周知の話ですね。
阿波国、徳島県は海を隔てているものの大阪の隣であり、首邑へのアクセスが良く、織田信長も一時期、三好一族による阿波国からの神出鬼没の活動に悩まされます。
今でこそ畿内から阿波国への移動は明石大橋、淡路島、鳴門大橋が当たり前となりましたが、かつては和歌山・小松島のフェリーが重要な役割を演じていました。いまも和歌山港と徳島港との間にはフェリー便があり、大阪南部・和歌山と徳島とのインフラ路線として健在です。
1968年10月の時刻表を見ると、難波駅から和歌山港駅まで「四国連絡」南海電車が63分で結んでいます。
一つの例をあげてみます。
難波 8:40 (四国連絡 南海電車)→ 和歌山港 9:43
和歌山港 10:00 (南海汽船フェリー)→ 小松島港 12:20
小松島港 12:29 (国鉄快速列車)→ 徳島12:44
徳島からは急行「よしの川3号」となり、徳島本線、土讃線経由で高知着 15:53
ワタシは紀州と四国をつなぐ航路に興味を持ち、和歌山で定期的に仕事をしていた時期、何度か和歌山港から徳島港 (小松島港への便は、この時点では廃止されていました) に渡りました。
織田信長に抵抗した阿波の三好衆と紀州の雑賀衆との交流を想像する船旅は格別でしたね。
最後にハカセの写真館。
いまは廃駅となった小松島港駅での急行「よしの川」の発車前の姿です。(1978年10月)
コメント
40年も前(社会人になって間もなく?)の10月に、小松ならぬ小松島港とはさすがハカセ。(楽屋落ちか)
写真を見るだけでも面白いですね。
阿南・海部方面だけ接続を載せた案内図とか、辛うじて判読できる月ヶ谷温泉の駅看板とか。
その前の文字は「上勝」でしょうね、今や葉っぱビジネスが大ウケの。
月が谷温泉には勝浦でキャンプした時に入りにいったことがあります。
その頃はやはり、ココの人たちは何してるんだろう、の感がありました。