ワタシの iPadには、感銘を受けたミーティングに関する簡単な記録メモが残っています。
病気で倒れた半年あまりのブランクはあるものの、メモは1000件を超えました。その多くは地域金融機関の魅力ある人たちの語録です。
ときどき読み返すことで脳に刺激が入り、そこから新しいアイデアが生まれてきます。
本日、改めて全件を眺めてみると、示唆に富む話の連続です。しかし、記録メモの主役の人たちの多くはボード入りすることなく第一線から退いています。
魅力ある人たちが所属していた地域金融機関の現経営陣を見ると ???
なにをかいわんや。
コメント
そういう魅力的な人たちが第一線から退いていったお話から、どうしてもダブってしまうのは関電さん。
先ほども報道番組で突っ込まれてましたが、黒幕の恫喝ごときで呆気なくヨロケてしまうんだから、揃いも揃って。
小学生でもわかるようなことを大の大人が・・・
あれほどの会社、真っ当な人間だって一人や二人いただろうに。魅力ある人はボードには一人も行ってないんですかね。まるでワタシみたい、ガハハ。
(スンマセン、先ほどまで期の打ち上げやってたもんで、チョッピリごきげんなんです)
ARCさん、
ワタシも関電の今回のドタバタ劇を見て、高校生の時に見た映画「黒部の太陽」を思い出しました。映画を見て、関電って凄い会社だと思った次第。
黒四の決断をした太田垣士郎社長 (映画では滝沢修さんです) と比べるまでもないのですが、同じ会社の経営者とはとても思えません。
目覚めているところもありますが、寝ているんじゃないかと思うところも、まだまだあります。世界的な金融緩和を目の当たりにして、日銀がどうの、副作用がどうの、と責任転嫁している時点で、話になりません。
時代が変わっていることを感じたのなら、自ら変わるべきです。「おのれ事中心主義」は通用しなくなる時代です。
関電の話になってしまいましたが
太田垣士郎と聞くとちょっと反応してしまいます。
全くの私事ですが、昔、東豊中にいた頃、通学路の途中に太田垣邸がありました。
に加えて実はそこの孫娘が同級生だったのです。(その子は近所の公立小に通ってたんでっせ、エライ!)
なもんで、太田垣さんチには何度かお邪魔したことがありましたが、立派な日本家屋と斜面を生かした庭が印象に残っています。
とはいえ、邸内はまあ普通のご家庭で、専らお婆様にもてなしていただいたような。
ただ主のご帰還の頃には何となく追い出されたので、ご本人をお見かけしたことはありません。
黒四完成の頃は、世紀の大事業ということで、太田垣士郎の名は関西では知らぬ者はなく、ガキにも伝わってました。
そうそう、士郎さんが亡くなったときには、関西中の高級車が来ちゃったかと思うほどの大集合でした(大方はアメ車)。
ARCさんが豊中の小学校に通っていたのは知っていましたが、太田垣邸に遊びに行っていたとは。。。長い付き合いだけど初耳です。
太田垣さんは阪急にいたので豊中に住んでいたでしょうね。
ARC少年の世話をしてくれたお婆様は、赤穂浪士の奥田孫太夫 (堀部安兵衛と並ぶ剣の達人) の直系の方ですね。