今週の乗り鉄紀行は岩徳線です。
岩徳線はその名の通り、山口県の岩国と徳山(一つ手前の櫛ヶ浜駅で山陽本線と合流)を結ぶ山間部を走るローカル線ですが、昭和初期には山陽本線でした。途中には大きな集落はありません。
大畠、柳井、光、下松経由の風光明媚な海岸線の方は、いまは山陽本線ですが、かつては柳井線と呼ばれていたそうです。
山陽新幹線は、新岩国~徳山をショートパスで岩徳線と並行して走っています。
さて、
岩徳線の列車には一度だけ、わずか一区間だけですが乗車したことがあります。
それもSL(岩国~西岩国3.7キロはデコイチだったと記憶しています)が牽引する山陽本線糸崎発、呉線経由西岩国行の客車列車です。
昭和43年春、西岩国駅に降り立ったのですが、この駅はかつての岩国駅であり、岩国の旧市街地にあります。(その時期、特急の停車する山陽本線・岩国駅の名称は麻里布駅でした。)
西岩国駅から2キロあまり市街地を歩き、錦帯橋と岩国城を見学しました。
初代の岩国城主は吉川広家。
毛利元就の孫であり、吉川元春の三男です。司馬遼太郎さんの「播磨灘物語」では秀吉の大返しの場面、「関ヶ原」では南宮山での空弁当の場面で登場します。
毛利一門の中心人物でありながら、関ヶ原合戦で徳川家康に内通した功績で戦後防長二国をオファーされたものの、これを辞退。
改めて防長藩主となることを許された毛利本家の家臣(徳山や長府のような支藩としては認められず、あくまでも家臣として)として岩国に入城しました。
以降明治維新まで、吉川家と毛利本家とは微妙な関係が続きます。
吉川広家の前任地はワタシの地元、富田月山城(とだがっさん、島根県安来市)だったので、彼の足跡を見たいという強い思いがありました。
あれから四半世紀あまりが経ちましたが、あの時と同じ美しい桜の下を歩きたいものです。
ハカセの写真館には岩徳線の客車列車がありました。
玖珂駅、1978年8月12日です。