昭和の時代に東京と青森を結んでいた看板特急「はつかり」のことを書きます。
昭和30年代に登場しましたが、上野と青森を「はつかり」、青函連絡船で北海道へというのは憧れの旅程でした。
当時、飛行機は高価で、とても一般人が利用できるものではありませんでした。
昭和36年の時刻表で見ると、上野から札幌に行く場合、最速の「特急はつかり→ 青函連絡船→ 特急おおぞら」(19時間55分を要する) だと3,200円 (二等車利用)。
一方、羽田から千歳の飛行機だと11,700円で所要時間は1時間50分。
ちなみに大卒の初任給は17,000円ぐらいだったようですから、東京から札幌まで飛行機で往復すると大卒新人社員の月給が軽く吹っ飛びます。
さて、「はつかり」は当初機関車が牽引する客車でしたが (これは記憶にありません)、昭和35年にディーゼルカーとなってからの記憶は鮮明です。
後段の平塚のハカセの写真にもある通り、「犬の顔」はインパクトがありました。
「はつかり」以降、全国展開したディーゼル特急 (白鳥、つばさ、くろしお、まつかぜ等) はスッキリ?したデザインとなり、犬顔は伝播することはありませんでした。
犬顔はつかりは当初、事故続きで、「はつかり事故続きでがっかり」といったような新聞記事があったことをなんとなく覚えています。小学生のときも鉄道関係の記事だけはチェックしていましたので。
「はつかり」にやっと乗れるようになったのは、昭和43年10月に青森まで電化し、電車特急 (583系) になってからです。
ディーゼル特急が電車特急となり、犬顔はロボット顔になりました。
4人掛けのクロスシートで評判が芳しくないと今やボロクソ評価の583系ですが、初めて乗った時は大いに感動したものです。
東北新幹線が盛岡まで開通した段階で、「はつかり」は盛岡と青森とを結ぶ特急列車へと都落ち、青函トンネルが開通すると函館まで行きました。
戊辰戦争で江戸から函館まで転戦していった旧幕軍のようです。
かつて、「はつかり」で函館まで行ったことがあるのですが、司馬遼太郎さんの「燃える剣」(土方歳三の話) 、読み古した文庫本・下巻を旅行バッグに忍ばせていました。
東北新幹線が新青森まで延長になった時、最速列車の名称は当然「はつかり」で決定と思っていましたので、「はやぶさ」という名称には違和感がありました。そのように思った人は非常に多かったようですね。
我々の世代には「はやぶさ」といえばやはり九州特急です。
鹿児島県の知覧で陸軍戦闘機「隼」の展示を見た時に「はやぶさイコール鹿児島」というのが腹に落ちたものです。(直接関係はないようですが)
「はつかり」は函館で終わりました。
函館のあと東京で復活した榎本武揚ではなく、土方歳三や中島三郎助 (この人のことはいずれ書きます) のように。
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さて平塚のハカセの写真集です。
① 犬顔はつかり
上野駅、昭和42年10月、
私も同じ場所同じ時間に撮影したのですが写真は手元にありません。
管理の悪さを恥じます。
② ロボット顔はつかり
東北本線 奥中山付近
平成14年8月
③ 函館まで行ったはつかり
函館駅、平成14年8月
コメント
①はどこぞの客車区に留置されてるのを一瞬見ただけで乗ってない。
②は記事の通り、特急料払って4人掛けかよ、ってんで乗ってない。
まさに、乗っておきたかった列車、、、ってタイトル見たら、なんだ変わってるじゃないの。
乗っておきたかった列車(その8)は来週の日曜日に掲載予定です。
乞うご期待。