なぜ農本主義思想が八戸で興ったのか

 司馬遼太郎さんは「街道をゆく 第3巻 陸奥の道」で八戸を取り上げ、次のように書いています。

  「日本は独自の思想家を生まなかったといわれてきたが、しかし明治32年、狩野享吉が安藤昌益の著書を発見したことによってくつがえされた」

 本日、八戸で安藤昌益(あんどう しょうえき)の資料館に立ち寄ったのは、「なぜ、八戸で日本独自の思想家が興ったのか!」という疑問に対する解を見つけたかったからです。

   安藤昌益は18世紀における八戸の町医者ですが、それとともに「農本主義こそが理想」と説いた日本屈指の思想家です。

 自ら耕す農業生産者(直耕者)以外は認めない、それ以外(武士も商人も)は、寄生者・寄生行為という、ある意味、激しい思想です。

   資料館(下記の写真)に行きました。資料館は八戸の中心地、三日町にあります。

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 さて、

   

 八戸は江戸時代になってからも、古き良き時代の農村漁村の形を崩していなかったようです。

 上方や関東において商業が勃興し、武士の支配する都市では藩が封建主義を浸透させ、その中での農業生産者の位置づけを確立(良い悪いは別にして)する中で、いわば八戸は取り残されていたのですね。

   ところが寛文年間(1660年代)に南部藩(盛岡)の支藩が八戸に作られるや、直耕者の上まえをはねる武士が、どっと入ってくる。

   そして商人。商業資本が日本で一番最後にたどり着いた場所が八戸なのです。日本の海路が日本海であったことは、北前船の隆盛で周知の通りですが、荒海が立ちふさがる太平洋海路が確立されたのはかなり遅く、元禄時代。つまり、八戸に大がかりな商業資本が到達したのは、江戸時代中期なのです。

 要は他地域では戦国時代から時間をかけて熟成された経済構造の変化が、八戸では濃縮された形で示現したわけです。

 商人の領域は物流から金融までおよび、やませ(山背)による冷害で窮乏する自作農は商人から借金、そして担保流れによる小作農化。農民の餓死者は3000人に達したと言います。

 この地域には「猪飢饉」という言葉があります。米が難しいので、焼畑農業で大豆、粟、ひえなどを作っていたのですが、連作ができないため、畑を休ませます。休耕地にはわらびや葛などが生えるのですが、これを狙った猪が異常繁殖。大勢力になった猪が畑を荒らしてしまい、畑作農業までもができなくなるという悲惨な話という説明でした。 

 この背景があったからこそ、安藤昌益の思想がでてきたのでしょう。納得。

 実を言うと、安藤昌益の存在は明治中期になるまで、まったく知られていませんでした。

 本日、資料館の方からうかがった、安藤昌益が世に出た経緯は非常に面白いのですが、長くなるので、いずれ改めて。

 残念なのは、八戸市の発行する分厚くカラフルな観光パンフレットに、安藤昌益のことが一切触れられていないことです。価値ある観光資源なのに。それ以前に郷土の偉人のことに触れないというのは、なにおかいわんや。

 パンフレットのカバーページは義経伝説ですが、伝説よりも実態のある安藤昌益の物語と旧跡の方が観光客へのインパクトが大きいのではないでしょうか。

 地元の方に聞いた話では、「安藤昌益の旧跡を訪ね歩く個人旅行者が最近増えて来た」とのこと。このような声は聞こえていないのでしょうかね。


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