百数十年を経て、世に出た安藤昌益

  ベストセラー「武士の家計簿」で知られる磯田道史さんの著書「日本人の叡智」(新潮選書)が好きで、いつも仕事場の机の端において、時にふれてパラパラと見ています。

 かつて、朝日新聞土曜版”be”で連載されていたもので、連載中はとても楽しみにしていました。覚えておられる方も多いのではないでしょうか。

 戦国末期の小早川隆景(毛利元就の三男)から、昭和の土光敏夫さん(かの有名なメザシの土光さんです)や寺田栄吉さん(昭和の日本進歩党の衆議院議員)まで、98人の人たちの名言集です。

 この中に明治の哲学者(と言っても良いでしょうね)である、狩野亨吉(かのう こうきち)の言葉も入っています。

 「価値などは人間がグループを作る上での指導的なものに過ぎない」(「日本人の叡智」、168ページ)

 価値や真理に絶対はなく、善悪や是非といった価値は、人間がつくる”あるグループ”にとっての固有のもので、そのグループを離れれば他では通じないもので、無価値になってしまうという意味のようです。

 狩野亨吉は第一高等学校校長や京都帝国文科大学の学長などもつとめましたが、夏目漱石にとって無二の親友(狩野が2歳年上)ともいえる人でした。昭和天皇の教育係の候補にもなったのですが、固辞しています。当時の軍国主義的天皇制と彼の考え方とではとても相容れませんからね。

 狩野亨吉という人は生涯独身で、40代半ばでリタイアしたのちは、江戸時代の古書を集め、それを読むことで、日本人の能力の高さを探ろうとしました。ちょうど明治の文明開化で欧米の思想や文化が入ってきて、かつての日本人知識層が自信を失っていることが背景にあったのでしょう。このあたりのことは司馬遼太郎さんの「街道をゆく」第29巻(秋田県散歩)に詳しく書かれています。

 さて、なぜ、狩野亨吉のことを長々と書いたかといいますと、八戸の安藤昌益の著書「自然真営道」を発掘したのが、この狩野先生だったからです。

 明治32年に狩野亨吉が古本屋で、この本に遭遇することで、安藤昌益が初めて世に出るのです。

 狩野先生と出会わなかったら、この本も、安藤昌益も、誰にも知られないままだったのです。

 実をいうと、昌益の著書は、当時としては内容が過激すぎるため、世を忍び、ひっそりと受け継がれてきました。

 東京・千住に住む橋本律蔵という、近所付き合いは一切しない隠遁者のような市井の知識人が秘蔵していたのですが、この隠遁者の遺品が古本屋に売られ、それが回り回って、狩野先生の目に留まったわけです。

 先日、八戸の安藤昌益資料館で説明してくださった方によれば、狩野先生は、安藤昌益の文章が自分の生まれ故郷の言葉遣いと似通っているので、ひょっとしたら自分と同じ地域の出身ではないか、と思ったそうです。

 ちなみに狩野亨吉は秋田県大館市の出身。

 狩野亨吉の存命中(1865-1942)には、安藤昌益の生まれも、育ちも、亡くなったところもわかりませんでした。本はあっても、昌益という人物が存在していたことすら疑われていたそうです。本当に謎の人物だったわけです。

 その後、多くの人たちが安藤昌益の研究を深め、今やお墓も、お寺の過去帳も、その他いろいろなことが判明しています。

 驚くことに、安藤昌益の出身地も狩野先生と同じ大館市だったのです。

 昌益が百数十年にわたり、同郷の識者が来ることを待っていたかのようです。

 事実は小説より奇なりですね。


シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする