夕暮れの大阪城を見ながらの新年会

   鹿児島から新幹線で東上しました。

   新大阪行の「さくら」号ですが、博多まではJR九州の管轄です。

   JR九州は高速バスとの競争が厳しいためか、車内スタッフの接遇が優れており、対応にきめ細かさを感じます。非常に好感が持てます

   本日の鹿児島中央駅を発車直後の車内放送を担当した女性のスタッフは、1月11日が鏡開きの日であること、その鏡開きの由来などの説明をしていました。簡潔明瞭、わかりやすく、とても良い車内放送でした。

   車窓はというと、残念ながら、トンネルが多いこと、それから住宅地の隣接地となると視界を遮る壁が設置されているため、眺めが良くありません。 仕方がないとはいえ、もったいないです。

   そう考えると東海道新幹線の車窓はお値打ちだと思います。

   さて、

   新大阪で途中下車し、ねやがわの教授と落ち合いまして、新年会をいたしました。

   大阪ビジネスパーク(OBP)にあるホテルのレストランで、夕闇に包まれて行く大阪城を見ながらの食事は格別でした。

   OBPは大阪城の北東部、大阪城の搦手口にあたります。

ホテルからのビューだと天守閣は間近に見えるのですが、実際に歩いて見ますと、曲がりくねって、かなりの距離があります。

   さすがに太閤秀吉の城は凄いと思うのですが、実をいうと、いまの大阪城の縄張りは大阪夏の陣で豊臣家が滅亡したあとの徳川家の時代のものです。

 太閤さんの時代の大阪城の敷地はもっと広く、いまの谷町筋のあたりまで城内であったそうです。

   大阪夏の陣のあとに大阪に入って、城と城下町の再構築をしたのは、松平忠明。

 松平姓ですが、奥平信昌(長篠の戦いの時の長篠城主)の四男で、母親は徳川家康の長女です。つまり、徳川家康の外孫。

   かつて、この松平忠明という大名を調べたことがあります。大阪城代のあとは大和郡山城主を経て、譜代大名のエースが配置されるという播州姫路城主まで、上りつめています。

   徳川家康の孫というと保科正之、水戸光圀など、そうそうたる人たちがいるのですが、豊臣家滅亡直後の大阪の仕置きを任された松平忠明という人も相当の人物であったものと推察されます。

   明日は京都をぶらついて、帰京しようと思っています。


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