サンライズ瀬戸

高校の同級生であるARCさんから、いまや稀少価値となった夜行寝台列車、「サンライズ瀬戸」(東京→高松) に乗ったとの連絡がありました。

ARCさんから送られてきた写真です。

Bb8862fc5bf84259be047d9d5c923c8b

F03aae22f394461f8b62a39eac714d81

0736eff7576a4962b9a2759bb1818669

私の方は、病気で倒れる直前、2013年7月に北斗星に乗車して以来、夜行寝台列車とはご無沙汰なので、実に羨ましい限りです。

「サンライズ瀬戸」は高松で仕事をしていた時に何度か利用したのですが、早朝に瀬戸大橋を渡るシーンが圧巻です。

瀬戸大橋が1988年に開通した直後、マリンライナーに乗車した時の感動は忘れられないのですが、数十年を経ても瀬戸大橋を走るときのワクワク感は変わりません。

「サンライズ瀬戸」は岡山まで「サンライズ出雲」と併結です。

「サンライズ出雲」の方は山陰から東京に戻る折に、何度も利用していました。

米子で早めの夕食をとり、少々酩酊気分で寝台車に乗り込むと窓の外は漆黒の闇。そのうちに眠りこけて、というのは至福のときでした。

最近は出雲大社や八重垣神社を訪れる女性客のうち、サンライズ出雲を利用する人たちが増えているのが理由なのかどうかはわかりませんが、チケットが取りづらくなっているとの話も聞きます。

またサンライズに乗れることを目標に、リハビリをしっかり行おうと思います。


シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. ARC(短縮しました) より:

    アララ

    2週続けて写真を掲載いただくとは。

    そんなことなら写真生活60年にかけて選りすぐりを送ったのに・・・

    サンライズは津山行以来でしたが「瀬戸」には初乗りでした。

    そう、瀬戸大橋のシーンはイイですねえ。

    今の時季、冬季なので薄明ですが、静かにボーッと浮かぶ島影や近くのプラントの照明など高い視点からの風景は風情があります。

    アッシも瀬戸大橋の開通間もなく大橋を渡りに行きました。大阪出張を月曜に設定して前乗りで、大橋を通って、淡路島経由大阪という筋で。

    このあたりの手口は旅芸人殿も同様かと。

  2. 旅芸人 より:

    夜行列車で朝を迎える時に「あさぼらけ」という言葉が頭の奥から飛び出してきます。子供の頃に百人一首で出会った言葉ですが、語感が面白かったので、すぐに覚えました。

    「朝ぼらけ 有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪」(坂上是則)

    瀬戸大橋でもよくこの首が出てきたのです。

  3. ARC(短縮しました) より:

    染みついた記憶というのはあるもんです。

    あさぼらけ、では「うぢの川霧たえだえに」なんてのもありました。ホ◯ノなんて古文の先生の夏休みか何かの宿題で覚えさせられたのがまだ残ってるんですよ。

    でもこの句、「有明の月」ほどの名句ではないなあ。ゴチャゴチャ入れ過ぎで却ってイメージが湧きにくいのか。

    小式部の内侍にカラんだ定頼の作だからなあ。

    上に瀬戸大橋開通が88年とあるので、ワタシの「初渡り」がいつだったか調べたら、88年6月5日の写真が出てきました(奇跡的)。橋の写真はなくて、たこフェリーの写真でしたが。

  4. 旅芸人 より:

    88年は廃止一週間前の青函連絡船に乗り、初めて寝台車を使ってみた、一ヶ月後に青函トンネルを通り、その年の5月末には瀬戸大橋経由で高松入りするなど大忙しでした。無理矢理、高松の銀行にアポを入れたりして、笑い。帰りは大阪から銀河でした。

    最終ステージの宇高連絡船に乗らなかったのはうかつでした。宇高連絡船は修学旅行で、乗ったのが瀬戸丸。瀬戸丸は記憶が間違っていなかったなら、沈没した紫雲丸を引き揚げたものだとか。紫雲丸事件では松江市の小学生がたくさん亡くなっていたので、不安いっぱいで乗船したことを思い出します。

  5. ARC(短縮しました) より:

    なーるほど

    旅芸人殿の便乗作戦の巧緻さは、到底、ワタシなんぞの及ぶところではありません。

    ワタシも青函の終了近くに乗りましたが、一週間前どころでなくても大変な混みようでした。

    瀬戸丸は確かに元紫雲丸ですが、構造欠陥で沈んだわけではないので浮揚再利用します。(水面から見えるくらいの浅さだったし)

    紫雲丸事件は後々の四国架橋にも繋がっていきます。

  6. ARC(短縮しました) より:

    せっかくなので宇高連絡船の写真を探したけど見つかりません(切符はあるのに)。

    青函航路の写真はたくさんありますが、それとは別に国鉄仁堀航路の連絡船の写真が1枚だけあって、見たら何と「瀬戸丸」だって。(もちろん宇高航路とは違う船)

    これには驚いた。

  7. 旅芸人 より:

    松江市の小学校の修学旅行は、金比羅、屋島、後楽園、倉敷でした。松江の小学生は紫雲丸の沈没した場所で海に向けて献花するしきたりになっておりました。

    当時の高松の商店街は大賑わいで、ビックリしたものです。

  8. ARC(短縮しました) より:

    考えてみれば我らの修学旅行時代は紫雲丸事件から10年も経ってませんから、記憶も鮮明、関係者には知り合いもおられたでしょう。

    ちなみに、ワタシの修学旅行は伊勢・鳥羽。帰路は関西本線のSL列車。

  9. 旅芸人 より:

    なぬ、、、

    大阪の小学校の修学旅行が国鉄を利用するとはビックリ。

    てっきり近鉄特急だと思っておりました。

    たしか近鉄は修学旅行の専門列車があったと記憶しておりますが。

    ちなみに東京の中学の関西への修学旅行は「ひので」でした。昭和41年の段階では新幹線ではなかったよ。

  10. ARC(短縮しました) より:

    もちろん往きは近鉄。ただ修学旅行列車(あおぞら?)だったかは覚えがないなあ。(多分乗ってない)

    ビスタカーも現われてからまだ数年だったような。