日曜日、乗り鉄紀行です。
本年3月にほぼ10年ぶりに福井に行った際には、身体への負担を考えて、小松空港までの空路を選択しました。
小松空港の滑走路に西から進入する直前、左手に北前船で栄えた橋立港 (加賀市) が見えた時には感動しました。択捉 ( エトロフ) 航路を拓いた高田屋嘉兵衛も寄港したのだろうと思ったからです。司馬遼太郎さんの「菜の花の沖」の文庫本を持ってくればよかった。
ところで、
かつてのワタシの福井への行程は、新幹線で米原、そこから特急「加越」というのが定番でした。( 学生時代は急行「くずりゅう」でしたね )
長浜城を確認し、賤ヶ岳の戦いの現場を見て、柴田勝家の冬場の活動を制限した“木ノ芽峠”をトンネルで走り抜けて、越前府中(武生) から越前北ノ庄に向かうというルートです。
時間に余裕があるときには、名古屋で新幹線を降りて、同駅発の特急「しらさぎ」に乗り換えました。
特急「しらさぎ」は、戦国絵巻列車であり、米原までの区間でも、岐阜の金華山 (織田信長の居城) などを車窓にとらえることができるのです。
実は、
特急「しらさぎ」は大垣駅を発車すると、東海道本線から右手に大きく外れて支線 (単線です) に入り、北側を迂回して、関ヶ原駅の手前で再び東海道本線に合流します。
このバイパス路線もれっきとした東海道本線ですが、直進する本線よりも勾配が緩く、機関車のパワー不足の時代には下り列車 (関ヶ原、米原方面) はもっぱらバイパス路線を走っていました。
本線の方には、中山道の宿場町である垂井の駅があるのですが、バイパス線上にあった新垂井駅は乗降客がほとんどなく、30数年前に廃止となっています。
そのため特急「しらさぎ」は、大垣駅から関ヶ原駅までの間、駅のないのところを走行しますが、途中右手に竹中半兵衛重治の菩提山城跡を見ることができます。
このあたりが竹中家の領地で、陣屋門などが復興されています。20代の頃、職場の友人の ◯本君と訪ねたことが思い出されます。
半兵衛の領地を過ぎると、特急「しらさぎ」は関ヶ原の古戦場を抜けて、伊吹山を右手に見ながら米原へと向かい、そこから北陸路へと入るのです。
伊吹山が白い薄化粧に包まれると、いよいよ冬の到来です。
本日のハカセの写真館は、ボンネット車両時代の特急「しらさぎ」です。
① 1994年4月、バイパス線にて
② 柏原~近江長岡_1995年2月11日
③ 柏原~近江長岡_1995年2月11日
コメント
およそ半世紀前、旅芸人殿に教えてもらった東海道線の駅名は当然下りの順だったので、ホヅミ–オオガキ–シンタルイでした。
漢字名も知らずにそのまま覚えてしまって、本家筋に垂井駅があるのを知ったのは数年後でした。
で、その次が関ヶ原で、さらに柏原と続きました。
写真の伊吹山は雪のためか威容ぶりが際立ってますね。
大阪にいた昭和30年代、伊吹山はスキー場に恵まれない関西にあっては貴重な(近場の)スキーエリアで、そんな高級な遊びには到底連れて行ってもらえないガキでも名前だけは覚えました。
年を経て、奇しくも写真と同じ95年の5月に、スキーではありませんが、とあるアウトドアスポーツで伊吹山を訪れてました。
その頃は中腹までゴンドラがありましたが、今はゴンドラもスキー場もなくなりました。
積雪量は下降の一方のようですが写真のような景色はまだ見られるのでしょうかねえ。
ARCさん、
半世紀前に覚えた東海道本線、山陽本線の駅名が意外に役に立っています。
あのクソうるさい MRIを定期的にやるのですが、その時に、東京、新橋、品川駅、、、、、用宗、焼津、藤枝、、と声を出しながら、それぞれの町をイメージしていくのです。下車したことのあるところは、観光スポットも思い出したりして、そうすると蒲郡、三ヶ根(半世紀前にはなかった)、幸田、岡崎あたりで、電気がついて、「はい終了」となります。
たいそうな効能だなあ。
以前、高齢で脳の大手術を受けたウチの母親は入院中のベッドで百人一首を唱えて続けてたとか。おかげ?で劇的な回復で、15年後の今も頭だけはシャッキリです。
駅名の効能は大いにあって、蒲郡の知人が「コウダのカキの拡販を頼まれた」なんて言いだした時もピンと来たし、彼の「ミヤの店で昼を」にもスッと応じたし(絶品の櫃まぶし!)。昔、研究室の同輩がヒラサワの生まれと聞いた時も、木曽平沢の?と返して驚かれたし・・・話が小さいか。