昨日のブログ「リトマス紙」に対して、橋本卓典さんからいただいたコメントには、非常に重要なメッセージが含まれています。
まずはその部分を切り出してみます。
〜問題は取締役だけでなく、執行にもあるのです。むしろ情報の非対称性で圧倒的に優位にある執行の方が問題です。監督される立場だけであり、基本的に責任が問われないからです。
取締役(特に社外)に真実を気づかれないように巧妙に立ち回っているケースも多々あります。厄介なのは形式要件を満たしていることです。
形式(それと過去、確率も)は極めて厄介な代物で、人を「やった気」にさせ、議論も思考も止めてしまう伝染病です。形式、過去、確率は揺るがない事実だから、だれもが安心(過信)してしまうのです。しかし、こんなものは実は、議論の本質ではない。〜
ワタシは非執行の社外取締役を長年務めているのですが、形式基準から見れば役割をはみ出た行動を取ることが少なくありません。
「多胡は執行じゃないのだから、そこまでやるのは如何なものか」という声も聞こえてきます。
もちろん、ケースバイケースですが、月に一回の取締役会での報告と議論だけでは監督責任は果たせないとワタシは思っています。
ガバナンスの教科書からすれば「違うだろう」と言われても、やり方を変えるつもりはありません。
「執行と監督の分離」、教科書的に形式要件を整えても、その役割を担うヒト次第では、経営が変な方向に進むリスクを回避することはできません。
結局のところは執行と監督、それぞれが責任感と矜恃を持つこと、そして両者間に強い“信頼関係”があることが不可欠と思うのですが、いかがでしょう。
コメント
私は現場第一主義です。ファクトが確認出来ないと、判断が出来ません。報告の多くは一面的断片的で、事実の全てを伝えていません。理事長という立場で、当組のような小さな組織ですらこうなのですから、大きな組織の社外取締役の難しさは想像できます。現場で事実を広い集めることなくして、監督も出来ないように思います。
現場重視といえば
リトマス氏が社外取締役に長年あられた時には「取締役会での報告と議論」だけでなく、
離島など不便な場所の支所を足まめに訪ねていたフシがあります。
関係者からもそのように聞いたことがありますし。
地理と歴史の探訪、かと早トチリしてましたが、
まさに、形式にとらわれず敢えて役割をはみ出た行動、の一つだったのか、と得心しました。
さすが、多胡さんですね。
新田さんのおっしゃる「現場で事実を広い集めることなくして、監督も出来ないように思います」は、重要な示唆です。つまりは、大きすぎる組織でそれは可能でしょうか?という一つの問いです。