蒲原鉄道

久しぶりの日曜、乗り鉄紀行です。

相州小田原の早川口に海蔵寺という曹洞宗の寺があります。

20年ほど前、魚料理をたらふく食べた後に立ち寄り、「名人久太郎」の墓参をしました。

海蔵寺は秀吉の小田原城包囲戦のときに堀久太郎秀政が陣を置き、戦時中に38才で病没したところです。

堀秀政は織田信長の側近で「名人久太郎」と言われ、本能寺変後は蒲生氏郷と並んで豊臣の有力大名となり、要地である越前北ノ庄や近江佐和山を任されました。

秀政の急逝後、堀家は上杉景勝の会津転封のあとの越後を治めたのですが、秀治・忠俊の二代で改易となり、その後大国の越後は美濃や豊後のように小藩分立となりました。

堀秀政の従兄・堀直政、その子・直寄(長岡の城下町を作った人)の家系は、3万石の小藩ながら堀家唯一の大名として明治を迎えています。

それが村松藩です。

前段が長くなりましたが、今日の乗り鉄紀行は蒲原鉄道の村松です。

城下町で軍都でもあった村松は鉄道のメインラインから取り残されました。

大正後半から昭和にかけて、信越本線の加茂駅から磐越西線の五泉駅を結ぶ(21.9キロ)蒲原鉄道の開通によって、村松はやっとのことで鉄道の恩恵を受けることになったのです。

その後、モータリゼーションの打撃を受け、1985年には乗客の少ない加茂~村松がまず廃線となり、1999年には全線が廃止になりました。

村松には加茂から蒲原鉄道で入ると山越え区間もあり、山間部と穀倉地帯の車窓のコントラストが良いと事情通から聞いていたので行きたかったのですが、残念ながら1979年から1985年は海外にいたため間に合いませんでした。

記憶がクリアではないのですが、90年代に入り、村松には五泉から入りました。わずか4キロ余り、8分ほどの旅でした。

その後、磐越西線で会津若松と新潟の間を何度か乗車した折に、五泉駅のホーム越しに蒲原鉄道の古びた車両を確認してホッとしたものです。

最後にハカセの写真館です。さすがにハカセは全区間を走破しており、ワタシの知らない加茂駅、大蒲原駅などの風景をきちんと押さえています。

加茂駅_1983年8月16日
高松駅_1983年8月16日
大蒲原駅_1983年8月16日
大蒲原付近_1983年8月16日
村松駅_1983年8月16日
五泉駅_1989年8月14日

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