40数年前、歴史愛好家仲間である職場の同僚◯本くんとともに広島県の福山を訪れました。
山陽道の外様大藩の中に打ち込まれた楔(くさび)、備後福山城の伏見櫓(伏見城から移築され重要文化財)が目的です。
福山の歴史は山陽道の大都市の中では長くなく、水野勝成が福山城を築城するまでは、備後の中心は内陸部の神辺(かんなべ)でした。
水野勝成は家康の母方の従弟であり、司馬遼太郎さんの長編小説「城塞」に大坂夏の陣で東軍の大和口の先鋒隊長として歴史の表舞台に現れます。道明寺口で後藤又兵衛の部隊と激突、これを壊滅させたのは水野隊でした。
福山城主は譜代大名が歴代務め、その中でも幕末の阿部伊勢守正弘はよく知られています。大河ドラマ「青天を衝く」では大谷亮平さんが演じていましたね。
福山では鞆鉄道の観光バスに乗りました。福山と鞆の区間を結ぶ鞆鉄道が前身ですが、1954年に鉄道は廃止となりバス事業が中心になっています。
観光バスのガイドさんが「“ともてつ”と読めなくて、“かわてつ”とか言われます」とマイク越しに説明していたことが記憶に残っています。
ガイドさんについて鞆の町を散策していたところ、我が故郷のさむらい山中鹿之介(尼子家家臣)の首塚にばったりと遭遇し、驚きました。
鞆の浦は瀬戸内の有数の港で、天正年間に足利義昭が滞在していたことは昨年の大河ドラマにも描かれていましたが、義昭に敵対する織田方の鹿之介の首実験がこの地で行われたようです。
それから40数年を経て、山中鹿之介の胴塚の行方を知ることになるとは。
昨年10月に岡山財務事務所の主催で地域金融のシンポジウムがあり、そこで基調講演を務めた関係で、本年1月に地元の金融機関の皆さんとフォローアップ・ミーティング(リモートです)を行いました。
そこで知り合った備北信用金庫(本店:備中高梁)の役員さんのFacebookの写真に「観泉禅寺、山中鹿之介の菩提寺」の文言が。
早速、お話をうかがうと、備中松山城下・高梁川の渡しで謀殺された鹿之介の胴を葬り、菩提を弔っているお寺なのだそうです。
ワタシの地元の小学生たちが訪ねたりするなど、深いご縁をいただいていることに感動しました。
実はワタシがはじめて原稿料というものをもらったのは22才のとき。「歴史と旅」という月刊誌に投稿した「山中鹿之介の戦跡を行く」というルポ記事なのですが、胴塚のことはまったく認識しておらず不覚を恥じています。
→おまけ:
鹿之介の兜は、鹿之介を討ち取った吉川家の城下町岩国・吉川史料館が所蔵しています。添付の「島根の歴史文化講座」のチラシの右上にある兜がそれです。