甲斐国・天目山といえば武田勝頼父子の終焉の地ですが、徳川幕府の処断によりこの地で自刃した大名がいます。
キリシタン大名で天正遣欧使節を派遣した有馬晴信(肥前・日野江城主)です。
18日のブログ・「神の国の鉄道・高千穂線」の起点である延岡の藩主を調べていたところ、このことを知りました。
晴信の息子、有馬直純は父に連座することを免れ、日野江城主を継ぎ、その後、日向・延岡城に国替えとなっています。
直純の夫人(栄壽院)が徳川信康と徳姫の孫(つまり家康・信長の曾孫)であり、実家が徳川四天王・本多忠勝の直系なので、お咎めなしになったのかもしれません。
それどころか、外様大名から譜代大名に格上げとなりました。このような幕府との密接な関係による譜代大名への格上げは「願い譜代」というそうで、諏訪家などもこの範疇に入ります。
有馬家は延岡から越後糸魚川、越前丸岡(天守閣は重要文化財)と移封となり、明治維新を迎えています。
有馬のあと三浦、内藤と延岡城主は譜代大名が続きます。
九州は鹿児島・島津、熊本・細川、福岡・黒田、佐賀・鍋島、といった外様の大藩が多く、譜代大名は小倉、唐津、中津、延岡などの小藩揃いですが、くさびのように打ち込まれています。
かつて延岡で仕事をしたときに一泊し、翌朝、延岡城址を散策しました。
有馬時代は5万石余りですが、それとは思えない立派な城郭規模に驚いたことを思い出します。譜代大名の格式ということですね。
http://www.city.nobeoka.miyazaki.jp/tempimg/171024152919201710241522330f.pdf
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