30年以上前の記憶が薄れかけているなかで思い出すのは、大阪本店の3つの都市銀行である住友、三和、大和の行員が午後8時に何をしているか、という話。
猛烈社員の住友、それに追いつけ追い越せの三和、お客さまとのリレーションシップを重視し地道な商売の大和。東京の一銀行員にはこのように見えました。
その大和銀行があさひ銀行(協和と埼玉が合併)と合併し、りそな銀行としてスタートを切った直後に公的資金が入りました。
それから20年。
日経が「りそなショック20年 大阪の現場では」の連載を開始しました。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF132QN0T10C23A6000000/
本日の電子版は第一回で、りそな銀行の岩永現社長の話ですが、印象に残った箇所は以下の部分です。
~大阪は取引が非常に濃いお客様が多かったので、「頑張って」という声をたくさんもらった。危機の直後は謝ることしかできず、きっちりと金融機能を提供して期待に応えたい一心だった。15年に公的資金を完済できたのは、店舗や人員もある程度は削減したが、大規模なリストラをして利益を捻出するのではなく、リテール金融機関としての生きる道を変えずにやってきたことが大きかったと思う。発祥の地でもある大阪で、長い歴史の中で培った信頼関係があってこそ実現できた。(記事より)
コメント
新参者として大阪で営業基盤を拡大した当事者として、大阪での大和銀行のプレゼンスの高さは身をもって思い知りました。大阪府下の地方公共団体との結びつきの強固さと大阪の地域経済を支える企業との信頼関係の醸成を前に返り討ちにあう日々でした。
もし、あの時大阪府下を中心に近畿の広域地銀に徹していたら関西の金融地図も大きく変わっていたでしょうし、現在のように大阪府下が多くの地域金融機関の草刈り場になっいなかったかもしれません。(これは愛知県周辺における東海銀行も同じだと思いますが・・・)
それがりそな銀行に変わってから、りそな銀行が再生できたのも大阪のお取引先の支援のたまものであることは勿論のことでしょうが、そのプレゼンスを急速に失ったのも事実でした。
やはり、公的資金の完済という呪縛に捉われたのだと思います。