梁田政綱、
桶狭間の戦いの場面において、主君の織田信長に今川義元の所在地を通報する人物ととして、ドラマなどに必ず登場します。
彼は第一位の殊勲者として、宿老に名を連ねることになります。大出世です。
そのあとはどうなったか。
ずっと気になっていたのですが、五十数年ぶりに読んだ司馬遼太郎さんの「新史太閤記」で発見。
場所は北陸。
加賀の大聖寺城の守将として一向一揆と向かい合っていた戸次(べっき)左近。
彼が梁田政綱の息子でした。
一向一揆の宗徒の後方には怖い上杉謙信が控えています。。
戸次左近は柴田勝家の属将ですが、勝家がさほど離れていない北ノ庄から援軍を出してくれないため、信長に直訴。秀吉の口添えもあり勝家の甥である佐久間盛政と交代するというシーンです。
戸次という姓は九州の名族のものであり、信長が九州攻めを展望して、改名させたのでしょう。
明智光秀は惟任、丹羽長秀は惟住、これらの別姓はよく知られていますね。
戸次とくれば、
戦国末期の豊後大友家の猛将、戸次道雪を思い出します。
立花宗茂の養父、奥さん(誾千代さん)のお父さんになります。
そういえば、筑後柳河の三柱神社、祭神は宗茂、誾千代、そして道雪です。