「どうする家康」で存在感を示す本多平八郎忠勝。
家康が関東の新領主として江戸に入城した際に、本多忠勝が10万石で封じられたのは上総国の大多喜です。
家康の所領は関東全域といっても、安房国は里見家の領地(本拠地は館山城)で、忠勝は里見氏の押さえとして上総大多喜に封じられたのでしょう。
安房里見家といえば、滝沢馬琴の南総里見八犬伝でよく知られていますが、
犬の文字が入った名前(「犬山道節」とか)の八犬士のモデル?となった里見家の8人の家臣が最後にたどり着いたのは山陰の地です。
1614年、館山城主・里見忠義は大久保長安(石見銀山などを管轄)事件に連座して改易となり、伯耆国倉吉に幽閉されます。
倉吉には忠義の墓所とともに、殉死した8人の墓があります↓
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さて、
倉吉の市街地は山陰本線から外れています。
かつて山陰本線の倉吉駅は上井(あげい)という名称でした。
打吹城跡や白壁の街で知られる倉吉の中心部には倉吉駅があり、車が普及していない私の子どもの頃は、上井駅から倉吉線という支線に乗り換えて行ったものです。
倉吉線は倉吉の中心部からさらに十数キロ南下し山守が終点。途中、関金温泉がありました。
1985年に廃止となっています。
高校時代からの友人、ハカセの写真館には倉吉線の写真(1977年夏)がありますので、アップします。
上は関金駅、下は山守付近です。