日曜の乗り鉄紀行、近江鉄道の最終回です。
蒲生賢秀 (がもう かたひで)
という戦国武将に興味を持ち、20代の頃、その足跡をたどりました。
近江鉄道の五個荘から程近く、新幹線が横をかすめる観音寺山には近江国守護の六角義賢 (佐々木氏、承禎) が居城を構えていたのですが、織田信長の初の上洛の際に蹴散らされてしまいました。
残念ながら、観音寺城は見上げるだけで、ワタシは登山したことはないのですが、六角義賢の重臣 蒲生賢秀が織田軍に抵抗し、最後まで立て籠もった場所に行ったことがあります。
そこは日野、米原から近江鉄道で1時間半ほどの行程です。
蒲生賢秀は信長と同い年であり、本能寺の変の時には安土城の留守居役だったのですが、明智光秀の誘いに応じず、信長の妻子を守って日野城まで撤退したと言われています。
日野は近江商人のひとつ日野商人のルーツであり、賢秀の息子、蒲生氏郷の転封に伴って、伊勢松阪、会津若松へと商圏を広げていきます。
日野駅を出発した近江鉄道の下り電車は、水口 (みなくち) という名前のついた4つの駅を経て、終点の貴生川に至るのです。
水口は東海道の宿場町ですが、秀吉時代は五奉行の1人、長束正家の居城でした。正家は算術に優れ、秀吉政権のロジまわりで手腕をふるいます。
関ヶ原戦い前夜に徳川家康が、東下する際に、正家 (石田三成方) の招待をすっぽかし、水口城下を脱兎のごとく駆け抜けて行く話が、司馬遼太郎さんの長編「関ヶ原」に出てきます。
「関ヶ原」の文庫本を片手に、正家時代の水口城 (江戸時代のものとは別です) の山頂に立ち、水口の市街地を眺めたことを思い出します。
3回に分けて、鳥居本から水口まで書いていきましたが、近江鉄道、歴史好きには絶対に見逃せない路線です。
最後にハカセの写真館。
貴生川駅_1978年11月3日
八日市駅_1992年12月6日
八日市駅_1992年12月6日
コメント
関西出身でありながら、近江鉄道はまだ乗車したことがありません。
お写真を拝見する限り、時代が移っても、車両や沿線風景はさほど変わらない様子。そんなゆっくりな時の流れにも、幸せはあるのかもしれません。兵庫県の北条鉄道なども同じような趣きがあります。
昔、旧東海道を歩いたときに水口の宿場町を見ました。道が3筋に分岐した、趣深い街並みだったと記憶しています。
「関ヶ原」や「城塞」などを読んで、関西を中心に歴史が動いていた時代に思いを馳せながら、近江鉄道にも乗ってみたい思います。
以前、近江鉄道は未乗と書きましたが水口で思い出しました。
昔、高槻にいたころ、近江鉄道に乗りに行ったことがあります。
ところが特に用もないので、どこへ行ったか何をやったか、ほとんど覚えてないのです。
水口の名前は記憶にあって、写真を撮った、なんてのを覚えているくらい。(水口ナントカ駅だったかも)
経路も、彦根・米原方面に行ったとは考えられないので、草津線か何かで入って、八幡に抜けたのではないかと。
ワザワザ出かけてもこんなもんです。
旅芸人さんのように歴史知識でもあればいろいろ想像力も働いただろうに、景色を眺めながらボーッとして乗ってるだけ、居眠りしてればどこかに着くだけ。
ホントに乗ってみるだけの乗り鉄でした。
日曜日の乗り鉄紀行も毎回楽しみに拝見しております。なんと、偶然にも本日、近江鉄道の八日市駅に降り立ちました。さすがに昔のお写真とは異なり、近代的な駅でした。
私も歴史が好きなので(司馬遼太郎の関ヶ原も読みました)、本当はゆっくり散策したいところです。
今日から湖東信金さんで研修です。
竹内さま、
乗り鉄紀行をお読みいただきありがとうございます。
まだネタがあるので、当分続けていきます。
来週は石田三成が敗走した伊吹山の冬景色をアップしようと思っています。